2016/01/03 のログ
ご案内:「教室」に朽木 次善さんが現れました。
朽木 次善 > 窓の外には冬枯れの景色が寒々としている。

窓の枠を境界として、内側は自分たちのいる美術室だ。
足元からゆるりと温める空調は、美術品へ配慮してかそれほど強くない。
ただ、過剰に熱を与えぬそれが、指先の悴みをほぐし、
頬に熱を持たせない適度な温度を齎してくれていた。

カンバスに下書きを施しながらその空気に身を委ねる。
出来れば、少しは形になるまで続けようと思ったが、
どうにも無言に耐え切れない自分の性質故か、
鉛筆を置き、顔を上げて呟く。

「すいません。
 急に……呼び出してしまって」

そして、相談したいことがあるという自分の申し出を受け入れ、、
急な呼び出しにも関わらず時間をとってくれた恩師への礼も言葉の陰に添えて。
加えて言うなら、その会話の合間に絵を挟むという、
回りくどい自分の臆病さに理解を示してくれたことにも感謝しながら。

ご案内:「教室」にヨキさんが現れました。
ヨキ > 「いや。誰あろう、君からの求めだからな」

朽木の謝罪に、緩く首を振って笑った。
彼の斜め後方に椅子を置き、その手が織り成す筆跡を眺める形だ。

「堅苦しい試験という訳でもない。
 気を楽にしようではないか」

言って、椅子から立ち上がる。
保温ポットの湯を二人分のマグカップに注いで、紅茶を淹れる。
安価な市販の茶葉とはいえ、立ち上る香りは温かで柔らかい。
朽木の傍らの作業台に、湯気が立つカップを並べた。

「それで――ヨキに相談というのは?」

カップを置いた後も椅子には戻らず、朽木の隣に立つ。
まだ全容の見えないカンバスの地肌を一瞥して、相手へ目をやった。

朽木 次善 > そのヨキ教諭の声色は、言葉は、居住まいは、
会えないと思っていた時に想像していたものと何ら変わらず。
泰然自若とした振る舞いは、ただそこにいるだけで日常の中に帰ってきたことの証左となり、安堵を齎す。
良くない、と思いながらも、呼気が落ち着く。
言葉に、説明に余計な感傷や焦燥が乗らないので、
だが今は卑怯にも本来受け取るべきではないその安寧に身を委ねることにした。

「ええ、ずっと……連絡できずにすみませんでした。
 先の晩夏辺りから……少し、事件に巻き込まれていて。
 結果としてそれは、もう終わったんですが……。
 完全に私事だったので、報告……相談すべきかも悩んでました」

目の前の未完成の絵は。
その時の情景に似ている。
描こうともがき、だが自分の力が及ばないため、
最初に描こうとした絵から少しずつズレていった。
結果が、中途半端で、救いようのない、あの時の路地裏の風景だ。
その失敗譚は、まだ誰にも漏らしていない。仔細を漏らせば巻き込むという思いもあったが、
それ以上に、あの時のことを振り返って、自分が耐えられる確証がなかったからかもしれない。

「……その時の話を。
 少しだけさせてください」

息を吸い、吐く。
重すぎる言葉になってしまわないよう、恩師の言葉を受けてではないが、
気を楽にしようと努めながらその単語を呟く。

「フェニーチェ……。
 劇団フェニーチェ、という集団を、ご存じですか」

ヨキ > 「……事件か。
 夏に君と会ったとき、『頑張らなければならないこと』に直面していると言っていたから……。
 心配していたのだが」

朽木の後ろに立ったまま、穏やかな声を続ける。
マグカップを取って、淹れたての紅茶を啜った。
陶器の熱を両手で包み込みながら、ゆっくりとした――慎重とも取れる相手の言葉に、耳を傾ける。

「……………………、」

フェニーチェ、という単語を耳にした一瞬、表情が驚きに冷えて強張る。
ひとたび視線を床へ伏せ、そうして正面へ戻す。
相槌にしては二秒遅く、マグカップの底がテーブルの天板をこつりと小さく鳴らした。

「――知っているよ。
 裏通りで演っていた、小劇団だろう」

徐に朽木の後方、元の椅子へ座り直す。
空いた両手の指を組み、膝の上に置いて多くは語らず、次の言葉を待った。

朽木 次善 > 「俺は夏に……その団員に直接遭遇しました。
 自分からというよりは、巡り合わせで。
 ……すいません、頑張らなければならないことと言ったのも、
 その件についてです」

一つ一つ、自分の中でほつれた糸を紐解くように、
丁寧に、糸が切れないように指先で探るように言葉を紡ぐ。

「団員……いえ。正確には。
 フェニーチェの団長と出会いました」

きっかけは、帰宅が遅くなったこと。
ただそれだけの偶然が引きあわせ、そして必要のない結び目を作った。

自分の後ろで、静かに自分の話を聞くヨキ教諭に、
少しずつ、絞りだすように言葉を放つ。
フェニーチェの団長たる一条ヒビヤとの出会い。
会話をし、彼女の価値観に触れたこと。
自分の正義に於いて、彼女を正しい方向に導こうとしたこと。
そして。
路地裏で自分の頭を向けて引き金を引いた彼女のことを。

「………。
 ……俺が」

鋭い呼気が漏れた。
静謐の間に、僅かに背中が折れた。
ヨキから見て、少しだけ背中を丸めて、言う。

「……俺が――彼女を殺しました。
 俺は、人を……殺したんだと思います」

ただ引き金に自分の指が掛かっていなかっただけで。
きっとその引き金を引かせたのは――他でもない自分だったのだろうから。

「すいません。
 本来。こんなことを。
 ……いや、そんな人間が、ヨキ先生に相談なんか持ちかけられる立場ではないのに」

今になって思う。
吐露をし、吐き出したところで……どんな解答が得られると思ったのか。
高潔で折れぬ、貴き刃であるヨキ教諭に……中途半端な正義で他人を殺めた、
殺人者の自分が受け入れられるとでも思ったのだろうか。
呼吸が漏れた。背後に、ヨキの気配がある。

ヨキ > そうか、と答える声が、果たして声になったかさえ怪しい。
紅茶で潤した喉が次の瞬間には渇き果てたかのように、薄く唇を開く。
ひとつずつ明らかになる話を聞きながら、自分の中で長く燻っていた違和感と憂いとが、
実態を帯びてゆくのを感じていた。

『朽木次善の前で一条ヒビヤが死んだ』――『彼女を殺した』。
決定的な事実が他ならぬ彼の言葉として現れた途端、ヨキの顔には止めを刺されたような――
もはや安堵に似た和らぎさえ浮かんだ。

「そうか。
 …………。“一条君”が」

ヨキが己の生徒を呼ぶときに用いる、親しみの含まれた敬称。
その声が、呼び名が、ヨキが一条ヒビヤを個人的に知っていたことの証左のすべてだった。

「だが」

衣擦れの小さな音を立てて、朽木へ一歩歩み寄る。
わずかに丸まった背へ、大きな手をそっと置く。

それはあの夏の日、決意した朽木を送り出したときと同じ手だ。

「君は……彼女のためになろうとしたのだろ。
 例えそれが今の君に、大きな喪失を齎したとしても。
 ヨキは、君らのあいだにどのような交わりがあったかを、君の言葉でしか知ることは出来ん。

 それでも……あの夏の君が意を決し、前へ踏み出した事実そのものは、何ら誤りではない」

深い呼吸をひとつ。

「――『頑張ったな』。朽木君」

約束を、果たした。

朽木 次善 > 息を呑む。一条君という、その響きに。
その日常に連結した呼び名が、自分が殺し、
命を断ち切ったその存在がパーソナルを持った一個人である証左のように思えて。

人を殺めた実感に、膝が笑った。

背に、ヨキの大きな手が乗る。
それは、極力こちらを怖がらせぬように優しく置かれた意図があり、
それを自分は重々承知であったにも関わらず、
双肩は僅かに跳ねるように身じろいでしまった。後ろめたさと、言い知れぬ不安感で。

深い呼吸の後。
ヨキ教諭の、『頑張ったな』という言葉が聞こえ。
それがいつか聞いた蓋盛教諭の言葉と重なり。
身体が――芯から震えた。
これを耐えるために、きっと自分は長い時間の空白を必要としたのだから。

「でも。
 俺は……救えなかった。
 徒に彼女に罪の味を教え、その泥濘の中に沈めるようにして……その命を奪った。
 彼女のためを思うなら……本当ならきっと、誰かに頼るべきだったんじゃないかと。
 もっとふさわしい結末があったんじゃないかと――あの日から、ずっと考えていて」

くしゃりと。
前髪を右手で握りこむ。

「俺はただ。
 自分の正義のために。信じるもののために。
 この島の平穏を守るために――残酷にその引き金を引いただけの。
 ……ただの人殺しなんじゃないかと。ずっと……思ってて。

 その決意は、踏み出した一歩は。正義の名の下に。
 人の死を伴って、それでいて『誤り』ではないんでしょうか……?」

背中に置かれた手をそのままに、
ヨキに向けて尋ねた。

ヨキ > 朽木の背中から伝わる熱。それを受け取るヨキの手は、語調の穏やかさに反して冷ややかだった。
じっと立ち尽くしたまま、声もなく朽木の言葉と、問いに向き合う。

「……君も――そして、一条君も。
 どこか不器用さのある生徒たちだと、そう思っていた。
 君らの繋がりを知らずに、どうしてだか生き急ぐような物言いをするものだと……」

自分の傍らにぶら提げたままの空の右手を、緩く握る。

「一条君には、『ヨキと出会うのが遅かった』と、そう言われたよ。
 今にして思えば……」

どこかで決まっていたのかも知れない、という言葉は、溶けるように呑まれて言葉にはならなかった。

「……確かに君の踏み出した一歩が、一条君に引き金を引かせたやも知れん。
 だが彼女が、彼女自身の指で引き金を引くことにも――それだけの、強い意志が要ったはずだ。
 君らにとって、拳銃の引き金は変わらず重かったのではないか」

カンバスへ目を向ける。
薄らと引かれた鉛筆の線が、パースペクティブを孕んでいることに目を細める。
何れの風景が立ち現れようとしているのか、未だ推すことも出来ず。

「…………。ヨキは、君のしたことを言葉の上で断じることは出来る。
 嗤いも怒りもせずに居てほしい、とは君からの求めではあったが……。
 それ以上に、ヨキは自分の意志で君を信じ、君から語られるのを待っていた。

 朽木君が、自分の選んだ道の先でそうして迷うことも。
 一条君が、自分で引き金を引いたことも。
 ヨキは君ら二人の心を守るよ。

 ……決して正しくも、賢しいやり方ではなかったにせよ。
 誤ってはいなかったと、ヨキは信じている。
 そうでもなければ……、

 ――自分の生徒らが、ひとりは自ら死を選び、ひとりは自分を人殺しと責めるなど」

朽木の背中を擦って、するりと手を離す。
彼の前に跪き、その顔を覗き込む。

眉を下げて小さく笑ったヨキの顔が、朽木を見る。

「……ヨキにはヨキの、やりきれなさがあるのだよ」

朽木 次善 > きっとその言葉は、彼女の本心の一つだ。
もっと早く出会っていれば、違う道を選ぶことが出来ていれば。
辿りつけた道の先もあったかもしれないと、彼女の目がそう言っていたのを思い出す。

ヨキと一条が繋がりを持っていたことは、
より自分を責め立てる。或いは彼ならば、自分よりも正しい位置に向けて引き金を引けたかもしれないと。
正しい判断を以って脚本に臨めたかもしれないと、そう自分の中の弱さが囁いてくる。

覗き込んでくるヨキの顔を見て。
自分の瞳が涙にすら濡れてないことを知る。
そうか、だから、きっと自分は。

「……すみません。
 ありがとうございます……。
 辛さを、分け与えるみたいなことを……。
 俺は、ヨキ先生が教師であることに、少しだけ甘えすぎなのかもしれませんね」

弱々しく、それでも微笑んでみせた。
相手の気遣いに気遣いを返すくらいの人間性は、まだ自分にも残っていたから。

「……彼女は。脚本家は……。
 先生の言う通りどこか自分の先について知っていたような気がします。
 ただ、彼女がそのままの思惑でいれば、あるいは司法が彼女を捌いたとしても、
 きっと彼女に罪を問う者がいなくなると……俺は勝手にそう思っていたのかもしれません。

 だからといって。
 個人がその公的な権力が問えぬ罪を、問うことは……もしかしたら何度もこんな結末を齎すのかと。
 そう、思いもしました」

ヨキの目を見て、およそ最後になるであろう問いを重ねた。

「ヨキ先生は……俺を責めないにしろ、
 もし公権力が正しい道を彼女に用意出来たのだとしたら、
 全てをそれに委ねるべきだと、そう……思いますか。

 法上としても……あるいは一条のように罪の意識がなかった、それを問うことが出来ない者がいたとして
 個人が心を守るために、無碍に行動を起こし、傷つく必要はなかったと。
 手を、汚す必要はなかったと。
 そう、思いますか」

描きかけのカンバスを前に。
ヨキへと問うた。

ヨキ > 朽木の乾いた眼差しを真っ直ぐに見ながら、小さく笑う。

「気にするな。
 生徒ひとりひとりが立ち向かう困難を見守り、受け止めるのがこのヨキだからな。

 ……君は自分で思う以上に、ひとりでよくやっているよ。
 もっと甘えてくれたって構わないくらいだ」

朽木の前に跪いたまま、相手からの問いを聞く。

「…………。
 我々人間は、法と律の正しさに倣い、従わなければならない。

 だがヨキは、公権に従う人間である前にひとりの芸術家だ。
 そうして一条君もまた、劇作家として自らの信念を全うした。

 人が押し並べて従わなければならぬとされる法は、時として脱落を産む。
 例えば一条君のような者を前にしたとき――

 ヨキは公権力よりも、『一条ヒビヤ』個人を知る朽木君――君を信ずる。

 彼女の信条を、その心を知らぬ者らに、ヨキの生徒を任せることは出来ない」

緩く首を振った。それは法から外れることを許容する、本来の教師にはあるまじき言葉だ。
それをヨキの、普段どおりの余りある強さを持った語調で、相手にだけ届くほどの声ではっきりと宣誓した。

「自ら命を絶った一条君を前にして、司法は君を殺人者とは看做さんよ。
 だが君は、自分自身を殺人者だと考えている。

 ……一条君が法の前で裁けぬ人間であるように、
 君もまた、『公的な権力が問えぬ罪を犯した』人間に他ならない。

 君の正しさに審判を下せる人間は、君ただひとりをおいて他にないのだ。

 ……惑う君を前にヨキや蓋盛が出来るのは、それこそ『無碍な』倫理から、君や一条君ら生徒ひとりひとりを守ることだ」

朽木 次善 > 『罪人』として。
そしてそれに対して審判を下す者として。
ヨキという教師を目の前にして、朽木という罪人がいる。
ヨキは強かった。優しさだけではない、あるがままを認め、認む、本当の強さがそこにあった。
罪を赦すのでも、裁くのでもなく、ただ認め、共に歩むことを是とするその言葉は。

許されることも、裁かれることも怖かった、劇場に佇む一人の『演者』に。
静かに。その手のひらの中に。

「……ヨキ先生。
 ……ありがとう、ございます。
 一つだけ、これは……言うべきかどうか、ずっと迷っていたんですが。
 先生がその問えぬ罪を罪と認めてくれるなら。
 俺は……それを包み隠さず伝えようと思います」

ゆっくりと顔を上げ。
ヨキの目を、今度は弱者のそれではなく、死線を一度くぐった強者の目で見る。
まだ芽吹いて間もないそれは、ただ常闇を想像させるほど深く暗くあり、
だが、まだ不安定に揺れている。


「俺は。
 ずっと、ヨキ先生に会うのが怖かったんです。
 それは、人を殺めた事実に対して、
 もちろん肯定や否定が怖かったというのもあるんですが……それ以上に。
 俺は、今回のフェニーチェの一件で……分かったことがあるんです」

両手の中に、何もないことを確かめる。
いつかこの両手に、武器が必要なときは自分を頼れと。
風紀委員である能見さゆりは自分へと告げた。
その時自分はそれを必要ないと、武器があったところで何になると一蹴した。
だから。
今もこの両手には武器がない。

「……俺は、脚本家に向けて、引き金を引きました。
 そうして、『公的な権力が問えぬ罪を犯した』者を……俺の正義で殺してしまった。
 手前勝手な覚悟と正義で……ただ、彼女を宵闇の中から救いたいという思いを以って。

 結果として。
 俺は審判者となりました。
 ヨキ先生の言う通り、自らの手で刃に手をかける、断罪者として。
 苦しみました。辛かったです。血を吐く思いだった。
 本当なら、彼女という個人を、断罪なんていう手段ではなく、救いたかった。
 だから俺は、数ヶ月の療養を要し、心を、そして身体を休める必要があった。

 でもそれは――逆説、身体と心を休めるくらいで。
 彼女という裁け得ぬ人を裁いてなお。
 救済という弾丸で貫いてなお。
 朽木次善は朽木次善として、砕けることなくあり続けることが出来たということです……。
 だから。俺は……朽木次善はこう思ったんです」

 言葉は。
 温度を持たず。ただ事実を告げるように。
 断罪者は告げるべきか迷っていた言葉を、理解者へと向けた。


「もしかしたら俺は。
 何度も何度もこういうことを――『繰り返して』いける人間なんじゃないかって」


心の中で撃鉄が。
カチリと音を立てた。

「もちろん、消耗はすると思います。
 心が擦り切れることも、身体に痛みが残ることもあるかもしれない。
 それでもなお――俺はその選択を選び続ける事が出来るのかもしれないと。
 もしかしたら『脚本家』に出会い、その最期を看取ったのは終わりなんかじゃなく、
 ただのこれから続いていく朽木次善としての生き方の、プロローグだったんじゃないかって」

脚本の導入は劇的で。
それだけで演劇の全てと、貧困な発想の自分は思い込んでいた。
でも、それは全くの間違いで。

もし。
自分の中にその覚悟があり。
両手の中に武器があり。
その正しさを、惑う度に正しき方向に戻してくれる認識者があれば。

自分は。
何度も何度も、あの路地裏で心を擦り切らせながら引き金を引けるんじゃないかと。

――そう、思ってしまった、その事実こそが。
――朽木次善をヨキや、蓋盛から遠ざけた、彼自身を苦しめた恐怖だった。

「……もし。
 これが荒唐無稽な話で。
 俺が、間違っていると思ったら、それこそいつでも頬を叩いてください。
 今から話すのは、ただのお伽話で。
 自分が、生まれて初めて描いた、稚拙な『脚本』の話ですから」

確認するように、ヨキ教諭の表情を確かめた。

ヨキ > 向き合った朽木の、目の色が変わった。
普段どおりのヨキの、穏やかでいて動じることのない、平坦な眼差しが見つめる。
彼が覗いた淵をそのまま写し取ったかのような暗がりを、照らし返すかのように。

揺らぐことのない金色の瞳は、そうしてヨキが常の人間ではないことを相手へ伝えるのだろう。

相手の眼差しを見出した瞬間、ヨキは何事か納得した様子で立ち上がる。
はじめに彼の後方に置いていた椅子を、彼と向かい合う位置に置いて座り直した。

それは、生徒である彼を後ろから見守るでも、跪いて支えるでもない――

朽木次善というひとりの青年と、対等に話を交えるためのものだ。

長衣のドレープを緩やかに垂らして深く腰掛けたヨキは、まるで彫像めいていた。
――やがて語り終えた朽木の声の余韻までもが消えて、美術室にしんとした静寂。
急くでも焦らすでもない、落ち着いた間を置いて、ヨキが返す口を開く。

「……プロローグ、か」

象徴的な一語を反芻して、目を伏せる。
死線の暗がりを思わせることのない、整った睫毛。

「ヨキは……君や一条君が、もしかすると自らの死か――それに近い位置へ向かおうとしているのだと考えていた。
 君らが繋がっていたことを知らずとも……誰かが『欠けてしまう』可能性を、ずっと想像していた。

 案の定――だった」

口元だけがぽつぽつと動いて、低い声を紡ぐ。

「一条君は自ら命を絶ち、……君は『気付いた』。
 決して朽木次善という人間が、変わったわけでも、喪われたのでも、勿論死んだわけでもなく――
 ……自分が『そう』なのかも知れない、と」

瞼を起こす。
瞳の中で、金色の焔がぐるりと蠢動する。

「…………、聞こう。
 フェニーチェが凋落してからというもの――
 ヨキは久しく、『脚本』に飢えていた」

自らが『劇団フェニーチェ』の一条ヒビヤやその演目さえ知っていた、
のみならず愛したことさえ仄めかして、小さく笑う。

まるで舞台の幕が持ち上がるかのように、唇が薄らと開く。

「ヨキはいま、君のただひとりの観客で、校正者だ」

そこから覗くのは、牙が照るばかりで光を呑み込む、暗澹とした闇。

朽木 次善 > ヨキを目の前にして瞑目する。
自分を見ながら、その脚本の幕引きとして、引き金に指を置き、銃口を自身に向けた、彼女。
きっと彼女はそれが幕引きとなり、一連の脚本を終わらせる銀の銃弾となり得ると思っていたはずだ。

でも。
それは君の脚本の、大きな『穴』だ。
脚本殺しが、今からその脚本を台無しにする。
誰かが『欠けてしまう』こともない、たった一つの冴えたやり方で。

「俺は……この脚本を繋げます。
 この経験を通じて、俺が『気付いた』物は、
 救えなかった物は、何一つ無駄ではなかったと。
 自分が『そう』証明することが……『そう』あり続けることが出来るかもしれない自分の。
 進むべき道なんじゃないかと」

金色の瞳に、暗い光を宿した瞳が交錯する。
両手の徒手空を相手に晒すようにして、手のひらを向けた。

「……見ての通り俺の手には、武器はないです。
 誰をも駆逐出来る最強の異能も、
 人体を容易に引き裂ける爪も牙も、
 集団で個人を制圧する権力や軍勢も、
 交渉で戦闘自体を回避する弁舌の力も、
 化物のような得体の知れない何かも、
 俺には何一つないです。

 ただ俺は。
 この島の『道』を作っている。
 常世学園の、生活の基盤に携わる事が出来る。
 今はその一部しかない権能も、いずれ時を重ねれば少しずつ、あるいはその全てに於いて、
 この島の全てに自分の触れた指紋を残す事が出来るかもしれないと思っています。

 それは。
 或いは使いようによっては。
 牙も、爪も、異能も、軍勢も、弁舌も。
 何一つ必要ない――俺が使えるたった一つの武器になり得るんじゃないかと。
 そう思っています」


事件は起こらなかった。
殺人は起こらなかった。
引き金を引く人間は居なかった。
そういった『出来事』は。
『司法が裁けない罪』があるのと同じで
『司法が裁けない罪を殺す罰』になり得るのではないかと。

そう、思った。

一条ヒビヤの事件を経て、
自分がその全てを事故として、被害者として処理したことで、
朽木次善は今もこうして五体満足でヨキと学園生活を共にしている。
或いはそれを、もっと上手くやれば。
巧くやることが出来るようになれば。

――己の信じる物を得るための、道具として使えるのではないかと。
そう、思ってしまっていた。

「……卑怯で矮小な自分は、
 その手すら今度は汚さず――自然発生的に起きた何かによる偶然で。
 己の成したいことを成せるんじゃないかと、そう、思ったんです。

 ただ。
 その成したいこと自体を、今回のように誤ってしまうかもしれない。
 或いは、もっと十全な方法があるのに、気づかないかも知れない。
 自分の信じる正義が正しいだなんて、俺には思えない。
 でも、その正義を信じて行動するしかない以上――それを外側から監視し、見張る役割が必要です。
 脚本のエラーを校正する、或いはすり合わせの出来る者が」

――だから。
自分はその相手をヨキとしようと、決めていた。
或いはこの決断自体がヨキの信じる正義と相見えず、
完全なる否定を以って出鼻をくじかれ、頭を押さえつけられる可能性は充分にある。
自分は断罪者として足を踏み出したとはいえ、今はまだ手の中に何も存在しない。

でも。あの時路地裏で。
最初に自分の身体に銃口を向けさせたその覚悟が。
今も先に自分に向けて銃口を向けることで真剣な思いであることを伝える一助になっていた。

「俺が間違っていると思ったとき。
 いつでも、俺のためを思い、俺の正義を正すために喉笛を噛み千切る校正者が、
 断罪者が足を踏み出すのに必要なものだと、俺は考えています。
 何度も何度も、これからきっと間違って行くであろう俺を、
 支えず、守らず、ただ机の上で正しさをやりとりするような相手が。
 今俺は、心の底から欲しいと、そう思っています」

まだ、手の中に道という武器がない今だからこそ。
その願いは真摯にヨキへと届くはずだと、信じていた。


「……ヨキ先生。
 俺の拙い『脚本』に名を連ねて貰えませんか」

ヨキ > 朽木次善が自ら著した『脚本』。
はじめて作られたというその内容に、双眸が見開かれた。
荒唐無稽や、稚拙などと。
それらを通り越して、いっそ痛快な話でも聞いたかのように。

「脚本の……『続き』か。…………、素晴らしい」

無欠の作品に対する、最上の褒め言葉ではなく――その言葉が、朽木から出たことについて。
笑って、首を振る。

「……君は、自分で言うとおり何も『武器』など持っていないのだろう。
 だが君は……聡明だ。単なる学識の話ではなく、……気付き、ひらめく力がある。
 時としてしくじり、失敗を招いたとしても。それを失敗だったと自ら悔やみ、次へ繋ぐ。

 ヨキは……それを『卑怯』と呼びはしない」

そのような形で欲されるなど思いもしていなかったと見えて、笑みに小さく肩を揺らす。

「いいだろう。……朽木君、ヨキは君の『脚本』を見届ける。
 時に校正者として……時に共作者として。
 よりよいやり方を、君のみならず――ヨキをも正すために」

立ち上がり、朽木の前へ歩み寄る。
真っ直ぐに伸ばされた背筋の高みから、朽木を見下ろす。

「それが正しいかどうかは、然したる問題ではない。
 ……それが君自身の心において、信じられるかどうかだ。
 信じて進むと決めた君を――ヨキは歓迎する」

ヨキが。
自らの正義を信条とし、断罪を是とする猟犬が。

笑った。まるで心底から誇らしげに。
生徒の門出を言祝ぐように。

各々の足で、それぞれ対等に立つ者として――

握手を求めた。

朽木 次善 > やはり。
この恩師に相談して。
そして自分という存在が、両足で道の上に立ったときに、
手を伸ばせる場所にこの人が居てよかったと……心からそう思う。

差し出された大きな手に、僅かに震えた手を重ねる。
重なったことで震えは止まり、強固に絆が結ばれた。
かつて、ただの憧れであった相手と、今度は対等な『演者』として。

「……はい。
 そうしてもらえると、ありがたいです。
 ……自分が、この道を進む上で、
 けして避け得ぬものであってくれれば……。
 俺としては、ありがたいです。
 俺にとっては先生が校正者(敵)であれ、共作者(味方)であれ、
 これほど心強い相手は居ないと思ってますから」

画材に手をやる。
絵は、まだ途中だ。
描き始めた絵は描き終わりの姿の片鱗すら見せない。
ただ、それに少しずつ色を足し、重ねていくことで、
或いは一つの絵が浮かび上がるようなものなのかもしれない。

机の上に、カードは配られた。
そして、そのカードの価値をわかる相手もいる。

自分は、この常世学園で生きていく。
退場してしまった人の思いすらも背負いながら、役割を演じていくだろう。
どんな異能者であろうとも誰もの下に道がある以上。
その道と共に己の成すべきを成すだろう。


「……では、ヨキ先生。
 またこの島の上で――」


『脚本家』は『共演者』に、笑った。

「是非――『正義』の話をしましょう」

ご案内:「教室」から朽木 次善さんが去りました。
ご案内:「教室」からヨキさんが去りました。