2016/06/18 のログ
ご案内:「職員寮高層階の一室」に有明道典さんが現れました。
有明道典 > 男は夢を見ていた。もはや何時の事は思い出せない遥か過去の記憶を、夢に見ていた。あまりに恐ろしい、終末を想像させる地獄に彼はいた。自分の知っている世界の全てが終わりを迎え、自分がこれまでの人生の中で培ってきたもの、得てきた物を全て失っていく。恐怖。慄然。狂気。畏怖。幻惑。転倒。崩壊。喪失。喪失。喪失。喪失――

空想家や夢想家、麻薬患者が脳裏の裡に浮かべる阿片の夢のような光景が眼前に広がっていく。それが何であるか男は理解できない。一片足りとも理解できない。故にそれを説明することはできず、強烈な吐き気や目眩に襲われるのみである。自らが大切に守ってきたもの、自らが信じてきたもの全て。あらゆるもの、万象が歪み、壊れ、散り散りになっていく。

彼の世界はそうして崩壊し、二度と戻ることはなかった。精神が壊れ、何もかもが吹きとんでいく。誰がこんなものを呼び起こしたのか。何がこのようなものを呼び出したのか。空に無数に開いたあれは何か。地より海より現れるものは何か。誰も、誰も答えてはくれなかった。彼が守ろうとしたものは全て、消え失せてしまったのだから。

これは夢である。彼が遥か過去に経験した、今はもう殆ど思い出すことの出来ない記憶――

有明道典 > 肺病に侵されたかのような息苦しさを覚えて、道典は目覚めた。ベッドから半身を起こし、手で口を抑えて咳き込む。ひどく気分の悪い目覚めであると言わざるを得なかった。特に病などに罹患しているわけではないものの、それはとても耐え切れないものである。
今はもう思い出すことの出来ない遠い過去の夢を見ていたような気がしていた。そんな夢を見た時は、いつも決まってこの肺病のような苦しさと頭痛に襲われる。

年中のほとんどの間締め切られたカーテンの隙間から朝日が部屋に入り込んでくる。フローリングの床に光が伸び、薄暗い部屋の中を照らす。胸をこみ上げてくるむかつきと、目覚めとともに到来した頭痛に顔を顰めながら、道典はベッドから出てカーテンを開いた。カーテンを開くのはかなり久しぶりのことだ。

有明道典 > 胸のむかつきと頭痛を抑えるために、淀んだ空気の留まる部屋に新鮮な空気を入れようと、カーテンと窓を開ける。そうすれば、道典の目の前にまばゆい朝日とともに、住宅街が広がっていく。
常世島の南部に広がる学生と職員の居住区である。島の南部が一望できる部屋に道典は住んでいた。ベランダに出て、さわやかな風に身を晒して、手で目の上に庇を作りながらその光景を眺めていく。

ここは常世学園の職員寮の一つ。学生寮や住宅から学生たちが学園へと向かっていく姿が見られた。普通に歩いて登校するものもいれば、“異能”や“魔術”を用いて、空などを飛んでいく者達もいた。
瞬時にその場から移動してしまう者もいる。テレポート系の異能や魔術を使う学生だろう。

有明道典 > 視線を別の場所に移せば、異邦人街が見える。この地球の人間だけでなく、異界からやってきた者達――「門」を潜ってこの世界を訪れたマレビト達――が、それぞれの世界の文化を反映させた住居から姿を現し、学園へと向かう。
異邦の民は必ずしも、地球の“人間”と同じ姿をしているわけではない。亜人種――もっとも、これも差別的な意味合いを含む言葉と取られかねないが――の者達も数多くおり、それぞれの姿や能力を用いて、空を飛び、瞬時に移動し、あるいは特殊な乗り物に乗って登校を始めていた。

これらの光景はこの島では何も珍しくないことである。いずれは世界の全てで、当たり前になっていくことだろう。何せ、そのための学園である。そのための常世島である。未来にあるべき世界の姿のモデルケース。理想の箱庭。実験場。試験場。それがこの場所なのだ。

有明道典 > 大変容と呼ばれる、旧き世界の何もかもを変えてしまった出来事から数十年。この学園が創立されてから十数年。学園創立期から考えれば、今は安定期に入っているといえる。
多くの問題を学園は抱えているとはいえ、それはある意味当然のことでもある。

この学園はモデルケースなのだから、いずれ世界中で起こっていく出来事への解決策を示さなければならない。完全に学園が平穏になってしまうことは意味が無い。
もし世界がそのような形になったとすれば、この学園は意味を成さなくなり、終わりを迎えるのだろう。学園への入学者は増加し、様々な問題と解決がある。まさしく、モデルケースとしての学園は安定しつつあった。

有明道典 > 教師としては喜ぶべきことなのかもしれない。この学園の理念は、大変容以後の世界の導きとなること。
異能や魔術の研究を行い、それを正しく用いるために教師が生徒へと授業を行う。

そうした結果、今のような学園が維持されてきている。大変容以後の、地球と異界の融和、異能や魔術の受け入れ、旧き世界から新しき世界への移り変わり。
きっとそれは、近い将来訪れていくものなのだろう。

むしろ、この姿が本来のもの、あるべき姿なのかもしれない。大変容が起こるまでは、異能や魔術、人間以外の存在は歴史の闇の中に隠され、存在しないものとされていた。
彼らからすれば、歴史の表舞台に立てたということになる。
彼らにとっては、まさしく春の訪れにも相応しい出来事が、大変容であったのかもしれない。

今、この世界はあるべき姿に戻ろうとしているということになるのか――

有明道典 > そんな未来を想像させる光景を見て、道典を胸のむかつきと頭痛が再度襲った。

爽やかな風を受けて、理想的な未来を垣間見たというのに彼の胸中は最悪だった。
吐き気がする。頭が痛い。何が理想の未来か、何が新しき世界か。
自らの目の前に広がる世界への違和感が沸々と沸き立っていく。

拭い去れない違和感、嫌悪感。自らがこの世界から阻害されているようなおぞましさ。
古い世界が忘れ去られていく虚無感。そんなものを道典は感じていた。

とはいえ、道典の容姿からすれば、そんな旧い世界に生まれているはずもないのだが。

有明道典 > 「糞食らえだ」

吐き捨てるようにつぶやく。この学園の教師にあるまじき言葉を放ち、くるりと踵を返してぴしゃりと窓を締める。
シャッ、とカーテンを閉めれば部屋はまた薄暗さに包まれる。カーテンを年中の殆ど閉めているのは、朝に先程のような光景を見たくないからである。

今日は耐え難い胸のむかつきなどのため、気分を変えようとベランダに出たのだが、案の定気分はより悪くなるだけであった。失敗した、と彼はひとりごちる。

有明道典 > バスルームへと向かい、水道をひねって顔を洗う。鏡に写る顔は実に不景気な表情をしていた。頭にも水をかぶり、沸騰しそうな気分の悪さを落ち着かせようとしていく。

その後、タオルで頭と顔を拭きながら、キッチンへと向かい、電気ケトルに水を入れてスイッチを入れつつ、棚に置いてあるコーヒーの粉のパックを取り出して、それをカップに入れていく。
湯が湧いたのでケトルからカップに湯を注いで即席のコーヒーを作る。色はコールタールのように黒く濁っていた。

それを道典は一気に飲み干した。ひどく安価な製品のうえ、製造年月日はかなり前のものだ。
大変容が起こる以前に作られたもので、こういう骨董品は一部の懐古趣味の者達には人気だ。
ある意味貴重なものなのだが、そんなコーヒーに価値を見出す人間のほうが少ない。
故に安価であった。

有明道典 > コーヒーはひどくドロドロに粘ついており、泥水と灰をかき混ぜたような味が舌に広がる。
あまりにも不味いもので、道典は顔を顰めるものの、どこか懐かしさも感じていた。
この不味さと懐かしさのおかげでようやく目が冴え始め、あの嫌な気分も消え始めていく。

ふう、と息を吐いて、流し台にカップを置いた。

有明道典 > リビングに戻ると、部屋の中央に置かれたソファに腰掛けながら、机の上に乱雑に置かれた本をまとめて鞄の中に放り込んでいく。
本の題名は『近現代史概説』――道典が授業で用いている教科書である。道典は、近現代史を担当している。
異能社会学、魔術社会学なども教えているが、メインは近現代史だ。

常世学園は異能や魔術についての制御などを学ぶことが主になってきてはいるものの、当然ながらそれ以外の学問が等閑視されてきたわけではない。
この「地球」の“歴史”ということも、学園に通う学生に教える必要のある重要な事柄である。

特に、異邦人、大変容以後にこの世界に生まれた若者に、大変容以前の「地球」を教えることは、何よりも重要であると道典は考えていた。

有明道典 > 一度起こってしまったものはどうすることもできない。
この「地球」を「かつて」のように戻すことなど、誰にもできないだろう。
たとえ姿を現した「神」であっても、それは不可能なはずだ。

これまでの歴史と同じように、大変容以前の世界は、過去という区切りの中に押し込められ、忘れられていく。
大変容という世界の全てを変えてしまった出来事さえ、いつしかは一つの出来事として片づけられていくだろう。

有明道典 > それでも、彼は過去を教授する。この世界がこの世界になる以前のことを、生徒たちに教えるのだ。
異能も魔術も使えぬ身では、この時代にできるのはただそれだけであった。
かつて存在していた文化、信仰、価値観――それらを知識として彼らに知っておいて貰いたかった。
それが、彼の教師としての根元である。

今更、この世界の何かを変えることなど、自分にはできないことを道典はわかっていた。
事はなるようにかならず、何の力のない存在では路傍の石程度にしかなれないことも理解していた。

されど、道典は教師として、この世界の未来を憂慮して、教鞭を振るう。
路傍の石であっても、何かしらの影響を世に残せることを夢に見て。

有明道典 > ――くだらない空想だ。


道典はそんな夢見がちな自分を嘲笑った。
今のこの世界の有り様を何よりも嫌っている癖に、この世界の未来を憂慮するなど何たる欺瞞か。
実際には、自身が溶けこむことのできない現実に八つ当たりしたいだけではないのか。
そう嗤い続ける。どのみち、自分の裡を晒すはずもない。
社会に唾吐く異端者が教師であれるはずもないのだから。

黒い革の鞄に書籍や携帯端末を入れ終わると、クローゼットを開けてグレーのスーツを取り出し、それを身にまとっていく。
散切り頭を一応の格好が付く程度になでつけて、ネクタイを結ぶ。
いつもの出勤のスタイルになると、鞄を持って、ベッドと本棚と机だけの物寂しい部屋を後にする。

職員寮のガレージに停めている琥珀色の流線型の乗用車に乗って、エンジンをかける。
今日の講義は二限からだ。
配布する資料の確認をしなければ――などと思いながら、彼は車を走らせていった。

有明道典 > ――大教室の一つで、道典はスクリーンに大変容以前の地球の諸都市、宗教施設などの写真を映しつつ説明を行っていた。

既に眠っている生徒などもいたが、彼は特に気にすることはない。
興味がわかないのも当然といえば当然だからだ。
この時代に求められているのは、過去ではなく、新しきものである故に。
道典の表情は、朝に浮かべていたような不景気なものでもなければ、この世界への嫌悪を表してもいなかった。

今つけているのは、教師としての仮面である。

「――それでは、授業をはじめよう。前回言ったとおり、今回は大変容以前の宗教のありようについて講義する。
 大変容後に生まれた生徒達には実感がわかないかもしれないが、試験に出すのでよく覚えておくように。
 これから話すことに不快感を覚える……魔術師の家系の生徒、神性に類する生徒もいると思うが、これはかつての「地球」の現実だ。
 気分を害さないでほしい。
 さて、前世紀のころは、神などを信じる者達は多くいたものの、神と呼ばれるものは現実に現れることはなかった。
 大変容以前は科学の時代であり、神は空想的、観念的な存在だと考えられ……」

ご案内:「職員寮高層階の一室」から有明道典さんが去りました。