2015/07/22 のログ
ご案内:「路地裏」に朽木 次善さんが現れました。
朽木 次善 > ――作業は、思ったよりも難航した。
東地区での仕事は、常に緊張感が伴う。
比較的簡単な作業であっても、中級以上の仕事の練度がなければ回っても来ない。
悲しいことに一年以上実務に携わり中級以上のラベルは貼られている身なので、お鉢が回ってきた。

簡単な工事だったが、気づけば夕闇から夜へと変わっていた。
本当ならばこんな地域を通りたくはないのだが、せめて歓楽街の駅に通じたバスが通る所までは出たい。
腰につけた工具類もそのままに、嘆息しながら路地裏を抜けていく。

朽木 次善 > (一年が怖がるはずだよな、こんな場所……)

自分ですら、恐ろしい。
道を曲がるたびに屈強な男の二、三人に取り囲まれて有り金を出せと言われないとも限らない。
溜息すらも押し殺した状態で、少しだけ足早に道を通り過ぎて行く。
今のところ人の気配はない。当たり前だ、こんなところにしかもこの夜中に
好き好んでいる「学生」がいるわけがない。

だが、ここに暮らす人間も、全てが全てそういう荒事向きの人種というわけではない。
出来る限りその暮らしを邪魔しないように、必要最低限の手だけ加えて、
ここにある秩序を壊さないようにしたいと思った。

少し伏し目がちに、猫背になったまま誰とも目が合わないようにして歩いて行く。
正面に誰かがいても、すぐには反応出来ないくらいに。
ともすれば肩がぶつかってしまいそうなくらいの、散漫な注意力で……。

ご案内:「路地裏」に『脚本家』さんが現れました。
『脚本家』 > 其の出会いは偶然か。若しくは決められていた脚本通りだったのかもしれない。
夕暮れは終わり、其の街の本来の時間を取り戻しつつある路地裏で、何の因果か、少年と少女は怪奇な遭遇を果たしてしまう。

少女も少年と同じく、散漫な注意の下、早足で少年とすれ違おうとする。
猫背がちな少年とは対照的に、ぴんと伸ばした背筋にポニーテイル。
しっかり、真面目に着こまれたブレザーは学生街で見れば真面目な生徒に見えたかもしれない。
少女は少年に気付くことなく、其のまま歩みを進める。

屹度、お互いに気付くことなく。
其の肩はぶつかり合ってしまうことだろう。

朽木 次善 > 気負いもあったのだろう。恐怖も多少小さじで降り注がれていた。
だからこそ、どこかこの場から逃げたいというような焦燥が、
注意力を散漫にしたのだろう。避けようと思った瞬間もろに肩がぶつかる形になって、よろめいた。

「う、おっ……! あっ、すいま。ごめんなさ……」

ぶつかった相手が女性であり、
しかもブレザーを着ていたことで、眉根が寄った。
それはあまりにもこの場に不釣合いで、だからこそ確かめるように下世話に視線を這わせてしまった。

それは脚本通りだったのだろうか。
月明かりが、僅かに差し込む路地裏で、視界に、赤が飛び込んできた。
相手の手の甲に、ぶつかった衝撃で赤い線――血の筋だろうか。
それが「ある」ように、少なくとも「朽木には」見えた。
慌てて、自分の腰に下げた工具を見る。そこには、何かを引っ掻いたような、彼女の手の甲に見えたものと同じ赤い線があった。最悪の可能性が思い当たる。

「ちょっ……! ごめん、それ。
 えっと……すいません、手、もしかして当たりました、ですよね、これ……!!傷……!!」

顔面を蒼白にして、相手の手を取ろうとする。

『脚本家』 > 意図があったとしたら、果たして其れは誰の意図だったのだろうか。
誰にも其の意図は解らない。誰かに踊らされているのかもしれない。
其れは少女にとっても、少年にとっても解らない。ただただ偶然だったのかもしれない。

「───ッ、ああ、すまないね」

凛としたよく通る声が、路地裏に響く。
自身も気付いていなかった少年の存在に一瞬驚いたような表情を浮かべるも、直ぐに仮面を被ったかのような固い表情に戻る。
少年の目線に気づけば、自分も其れを追って視線を落とす。

ぼうと薄い月明かりの下、ぼんやりと見えるのは赤い一筋の線。
彼女が生きている証であり、垂れる鮮やかな赤が其処にはあった。
困ったな、と小さく呟いて、彼女は苦笑を浮かべた。
彼の様子を見遣れば、恐らく擦れ違いざまに擦ってしまったのだろうと推察する。

「気にしなくてもいい、此の位は慣れてるさ」

彼の青い顔と慌てる様子を見れば、そう一言。
手を取られれば、また困ったように眉を下げた。

朽木 次善 > 「いや、ちょっとそういう訳には……!
 作業終わりに人に怪我させたとか、保健課に申し訳立たないっていうか、その、
 生活委員会として、見過ごしたら怒られるっていうか……」

その擦ってしまった手を取り、腰の後ろに手を回す。
鈴成君の言っていた事が痛いほどよくわかった。こういうときのための応急処置なんだなと。
応急処置セットから手早く消毒布を取り、「すいません、痛むかもしれないです」と傷に触れる。
実作業が一人の現場だったから、注意喚起を怠った。本来なら工具は仕舞って歩いていたはずなのに。
業務疲れか、自分の運のなさのどちらを怨めばいいのか図りかねて、苦笑いをしたまま顔を上げ。

「すいませ――」

その月明かりで見上げた顔が。
記憶の中の誰かの顔に合致して――。
それが公安と風紀が提示した、指名手配の顔であると認識し――。

「――ん、本当に」

続けて、不自然にならないように言葉を接げたのは、
ここ最近「渡りに船」が続いたからだった。鈴成、そして蓋盛教諭が「偶然に」居合わせたという経験が。
声を上げず、そして息を飲ませないことに繋がった。――自分は。もしかしたら今豪運の中にあるのかもしれない。
心臓の猛りが伝わらないように、丁寧に相手の手の甲の血を拭き取る。

「……変な話を、して、いいですか。
 傷の、治療の間だけで……いいん、ですが」

声が、それでも震えた。相手の手をとったまま、尋ねる。

『脚本家』 > 「生活委員──あァ、仕事帰りと云ったところか。
 此れはすまなかったね、と、云うよりも。随分と貧乏籤を回されたものだな」

お気の毒に、と小さく呟く。
消毒布が傷口に触れれば、一瞬顔を顰める。
傷口に沁みる消毒液の感覚に、「慣れないものだな」と苦笑を浮かべ乍ら彼の顔を見遣る。
夜の落第街の路地裏の照明は月明かり一つ。
ぼんやりと浮かぶ彼の表情に彼女が心当たりがある筈もなく、特に気にも留めずに彼の言葉を待った。
───そんな彼の『偶然』出したままだった工具の真相なども知る由も勿論なく。

ふ、と彼が顔をあげれば、ひどく淀んだ黒曜のような瞳が彼を捉える。
読心の異能がある訳でもない彼女が彼の認識したものが何かと云うのも気付ける筈がなく、ごくごく普通に。
動じることもなく、堂々と彼の言葉を聞く。

「変な話かい?
 ───別に構わないけれども。優秀な生活委員会の模範生諸君がこんな僕に何の用か。

 いや、模範生の君が僕と出会った時点で随分と変な話だが───」

クツクツと喉を鳴らしながら、声を震わせる彼に笑顔を向けた。
同時に、鋭い眼光も彼に剥く。

朽木 次善 > ――たったそれだけ。
たったそれだけの会話で。やりとりだけで。
相手が完全に超然とした存在だということが、理解出来た。
見上げる自分の卑屈な目に映る黒曜の瞳の濁り具合が、彼女そのものを表しているようだった。

指名手配の、顔の割れているこの存在が。
夜の路地とはいえ、こんなにも堂々と歩いている事自体が、完全に逸脱している。
彼女にとっては恐らく、「それすらもどうでもいいのだ」と。
妄想かもしれないが、伝わってきてしまい、僅かに手が震えた。
動揺が伝わらないよう、いや、相手は自分の動揺など最初からどうでも良かったのかもしれないと思いながら、傷口を拭う。
俯き加減で、呟く。

「ありがとう、ございます。出来れば……このまま(傷を治療されているまま)、聞いてください。
 ……俺は。……ずっと話がしたいと思っていた。出来ることなら。
 もしこれからする俺の話が他意のある言葉に聞こえて、俺がキミをどうにかしようとしていると思ったら、
 その瞬間、俺を置いてどこかに行ってもらっても構いません。
 ……俺は風紀でも、公安でもなく、生活委員会の、朽木といいます。
 生活委員会である証明も、先まで仕事をしていた証明も、可能な限り出来ますが、
 俺には、今キミをどうにか出来る何かがないことを、すぐに伝える術がない」

大きく息を吸い、吐いた。
次の瞬間にも、自分が殺されるか。あるいは目の前からこの少女が消えるかもしれない。恐怖で、舌がもつれる。
その恐怖と綱渡りに対して、自分が得られるものの余りの少なさも知っている。
だが。
僅かでも可能性があるなら、相手が暇潰しにでも、超然とした別の理由であっても、
自分の話を聞いてくれる可能性があるなら、何度でもそれを賭けたいとずっと思っていた。

「……話が、したいんす。『貴方』と」

月明かりの中、黒曜の瞳を見据え、自分が相手の正体を知っているということを、伝えた。
それで逆説、自分にはその上で何も出来ないという無力の証明にもなればと思った。
チップは既に、賭けの卓の上に置かれた。後は、相手の出方次第だ。

『脚本家』 > 彼女にとっては其れが当たり前で、何ら特別なことのない日常だった。
劇団フェニーチェの『脚本家』は、現実を重要視することはない。
彼女は単純に、ただひたすらに演劇を愛して──演劇の世界に呑まれている。
自分も大きな演劇の機械仕掛けのひとつとしか思っていない。
───同時に、ほかの人間も。彼女にとっては演出のひとつにしか見えていない。

公安委員会も、風紀委員も。勿論彼の所属する生活委員会も。
機械仕掛けの歯車のひとつなのだ。
故に、顔が割れていようが、誰かに追われていようが関係がない。
『そういう演劇のひとつだった』の一言で全て彼女の中では納得がいってしまう。
此処で彼に刺されようが、撃ち殺されようが。そんなことすら些細なこと。
自分の描いた脚本の外のアドリブで死ぬのなら、彼女は甘んじて受け入れる。

「あァ、構わないさ。僕は人と話すのが好きだからね、暇にならなくて嬉しいさ。
 其れに本来は『出逢うべきではない』ものだったのだから」

俯く彼を気にせずに、彼の言葉に丁寧に返答を返していく。
薄く笑みを浮かべ乍ら、実に楽しそうに。

「君の言葉を信じよう───と、云うよりも。
 君が僕を如何こう出来ないのはなんとなくだが解ってはいるさ、安心したまえ──
 
 僕と話がしたい、とは。随分と僕も有名になったものだな。
 僕よりもどちらかと云えば脚本が有名になって呉れたほうが嬉しいのだけどね。
 まァそんなものだろう」

困ったように肩を竦めて、また苦笑をひとつ。

「話をしよう、生活委員の朽木君」

少年の思案を他所に、彼女もまた思案を重ねていた。
彼が自分と、『脚本家』と話をしようと言っているのならば、自分も演じ上げなければいけない。
残った劇団フェニーチェの、最後のプライドであるとでも云うように。
演者が居なくても、醜い独り芝居だとしても、目の前の少年に。
観客が居るのであれば、演者は舞台から降りることはない。
相手が自分のことを知っているのならば、余計に彼女は、この場から逃げることはない。
もう既に、此処は舞台の上。

当然、賽は投げられる。

朽木 次善 > それは。逆に――。
その超然さは。まさに――。
『腕を落とさなかった蓋盛椎月』だ。自分は、巡りあってしまったのかもしれない。
そして同時に、腸の中に熱い感情が沸き上がってくることを自覚した。

公安委員会も。風紀委員会も。生活委員会も。生徒会も。
この島に生きる善人も。陰に隠れて暮らす悪人も。それが織りなす営みも。
歓喜も、悲哀も、怒号も、号泣も、感動も、共感も。
何もかもが彼女にとっては劇という虚構であり、脚本の上の有り得べきことである。
そこに、死が組み込まれていたとしても。どんな死が。誰の死が組み込まれていたとしても、だ。
何もかも等しい価値があり、等しく価値がない。

それが逸脱した存在の、モノの考え方。
劇団フェニーチェの『脚本家』の。フェニーチェの騒動の原因たる現在の首謀者の。
逸脱の仕方だ。賽は投げられた。出目など追わず。ただそうあるべきだというだけで。

心のなかに芽生えた感情を、丁寧に、丁寧に、丁寧に折り畳んだ。

「……はい。
 話を、しましょう……」

ダメだ。飲まれる。
だからこそ、道理を通す。何度も何度も夢想していた、自分が主体になれる形を踏襲して。
超然の存在の法則を、落とし込まなければならない。丁寧に血を拭い終わり、俯いたまま呟く。

「今週の金曜夜。闘技場で行われる『楽器の演奏会』があります。
 その後部席R-2と3の連席を取ります。そこで、偶然会ったという形で、
 話をさせてください。演奏会を聞きながら。
 すいません。俺が貴方をどうこう出来ないことはもちろんわかっていますが、
 貴方が俺をどうこう出来ないとは思えないので…。
 加えて、そのときまで、貴方に何の追っ手も掛からないことが、
 俺が貴方をただ拿捕したいだけではないことの証明にさせてください」

もしかしたら、その間に公安や風紀に彼女が見つかるかもしれない。
それが俺のせいだと思われる可能性は十分にある。だが、その時はその時だ。
何より、相手に本当に自分が話をしたいのだと何度も念押ししたいがための、提案だ。
最初から全てうまく行くとは思っていない。綱渡りを繰り返してでなければ、辿りつけないものもある。

「……それで、いいですか」

『脚本家』に、生活委員会は尋ねた。

『脚本家』 > 彼女は、自分が何処かズレていることにすら気付かない。
此の「常世島」と云う大きな劇場の中で営まれている劇のほんの一幕。
群像劇の一幕で、其の舞台を如何に輝かせるか───其れが彼女の思う脚本で、
また、彼女の思い描いた劇団フェニーチェだったのかもしれない。
彼の言葉を聞きながら、彼女の笑顔が滲む。
彼女の月明かりに照らされた影も、じわり、滲む。

一種のシミュレーテッドリアリティでもあるのかもしれない。
全ての物事がひどく非現実的で。其れこそ脚本を読んでいるような。
彼女の中では、此の出会いも。自分の生も。彼が今迄過ごしてきた時間も、出会いも。
全てに於いて、等しく平等に、悪平等に無価値だ。
意味はあったとしても、其れに価値は存在しない。
此の「常世島」と云うモデルケース──否、箱庭で。
箱庭で行われる演劇を大層楽しそうに眺めている"誰か"の為に行われる自分の描く脚本ですら誰かの脚本の中かもしれない、と。

其れを承知の上で、彼女は脚本を描き続ける。
劇団フェニーチェが島を席巻する、と云う脚本は何処かの「鮮色屋」のように燃えて亡くなってしまったが。
彼女は、未だ諦めない。───諦められない。
未だ「一条ヒビヤ」は。『脚本家』が残っている限りは、彼女は足掻き続ける。

"A fool thinks himself to be wise, but a wise man knows himself to be a fool."
彼女の敬愛する劇作家、シェイクスピアの遺した言葉。
愚者は己が賢いと考えるが、賢者は己が愚かなことを知っている。
彼女は、自分が愚かであることを心の底から認めている。
故に──他の劇団員とは違い、此処まで生き残り。また、彼と出会うことができたのだろう。


「今週の金曜──構わない。
 それにしても予想外なものだな、こんなところでアドリブを効かせられるとは思わなかった」

嬉しそうに笑って、彼女は、口元を歪ませる。
ひどく歪んだその笑顔は、卑屈にも、醜くも美しかった。

「演奏会とは中々いい趣味をしているものだな、僕に合わせて呉れたのかい?
 まァ、人生に於いてデートに誘われるとは思わなかったさ。

 ただ拿捕したいだけの奴なら僕は初めから逃げていたよ、間違いなくね。
 そうじゃあないと思ったから今、僕は此処に居て君とデートの約束をしている」

きつい表情とはミスマッチな軽口を、ひとつ。
彼の真摯な言葉にまた、彼女も真摯に向かい合った。
彼が生活委員会であることも朽木次善であることも関係ない、ただ、彼女の興味を引く出来事だっただけだ。
自分の描いた脚本の外の話を、彼女はひどく愛していた。


「構わない、其れじゃあ金曜日。
 ────楽しみにしているよ、朽木君」


『脚本家』は、嗤った。

朽木 次善 > 「……ええ。是非」

傷口に包帯を巻きながら、自分の手が震えていないかだけが心配だった。
心のなかに芽生えた感情が吹き出そうになる。

それは「小市民」としての。
この「『脚本家』がないがしろにしてきた側」の。
「どうでもいいという烙印を押された側」の。
「劇のために当然犠牲にしてよいとされるエキストラ側」の。
「優れた能力を持たない者側」の。

――灼熱の怒りだった。
けしてシェイクスピアが描いたような、羨望の炎ではない。
炎熱の、焼けただれそうな、心の底から抱いた怒りの炎が、胸の中で音を立てた。

自分では、この相手をどうにも出来ない。
それどころか、相手にとって自分は本当に道端で躓いただけの路傍の石で。
それが偶然感性を刺激するような造形をしていたから、少しだけ興味を引いただけのことで。
これが、極まった『芸術家』のあり方で『創作』のあり方なのだとしたら。

自分は――この相手を。
そんなもののために、公安委員会や、他の人間の命を犠牲にした――この、相手を――ッ!


目を瞑り、二秒だけ息を整えて、顔を上げた。
そして、『今まで潜めていた声』を『周囲に聞こえる声』に変えて言う。

「……本当すみません、引っ掛けて女性の手に傷まで作ってしまって。
 この埋め合わせは今度しますので、それで許して貰えれば……!!
 なんか最悪のデートの誘い方みたいになったけど、こればっかりは俺の気が収まらないので。
 また、傷口が痛んだりしたら遠慮無く生活委員会の方に連絡くれればと思うので。
 ホント、すいませんでした、通りすがりの馬鹿が……!」

大げさに言い、頭を下げた。
その顔を上げて、相手の目を見る。それは、一瞬だけ。
まるで、自分が立ち向かわなければならないものに、引き下がらないために。
ヨキ教諭に逃げるなと言われたその勇気の後押しで、まっすぐに。

「じゃあ。失礼、します」

そう告げて。
朽木は一度も振り返らず、その路地裏から走り去っていった。
まるで逃げるような速度だったが。出来るだけ離れて。そして呼吸がしたかった。
胸の中に渦巻く、理解が出来ない超然への敵愾心を早めに。
大きな叫びとして外側に逃してやりたかったから。

ご案内:「路地裏」から朽木 次善さんが去りました。
『脚本家』 > 彼が自分の手に包帯を巻くのをぼんやりと眺めながら、彼女は満足そうに笑った。
彼の気持ちに彼女が気付くことはない。
───寧ろ、知ったところで理解することは出来ないだろう。

彼は果たして「エキストラ」なのだろうか。
彼女は、其の認識を改める。
「生活委員会の朽木」は、もう既に劇の舞台に上がっている。
彼は名前のないエキストラでは、どうでもいい人間では、小市民ではもう、ない。
本来、「小市民」で在るなら拿捕して公安委員にでも風紀委員にでも連絡するものであろう。
にも関わらず、彼は。
「生活委員」としての立場もあるであろう彼は、犯罪者である『脚本家』と話をしようと。
人を殺すことも劇の為なら厭わない彼女を、其のまま見逃したのだ。

異常。
彼女は、朽木次善にそう、烙印を押す。
彼は小市民なんかではない。立派に、何処か歯車がズレている。
───自分と同じタイプの人間であると。
怒りを公権力に任さずに、自分で如何にかしようとしている。
彼は、立派に狂っているではないか。

「やァやァ、気にしないでおくれよ。
 仕事帰りで疲れていたんだろう、其れで僕もデートの約束が出来るなんて嬉しいよ。
 実に幸運だ、楽しみにしているよ」

彼と同じように、声を大にして。
先刻までの殺気も、威圧感も全く感じさせないような。
ごくごく普通の、在り来たりな会話を、演じる。

去りゆく彼の背中を見つめ乍ら、彼女もまた逃げるようにして路地裏を後にする。
自分と同じく、狂った人間に出逢えた喜びに表情を染め乍ら。
恍惚に似た笑みを、浮かべ乍ら。

───曇天。先刻まで彼らを照らしていた月は、今はもう。
雲に隠されて見えやしない。果たして此の邂逅は誰の意図だったのか、其れとも。
此れは彼女にとって、蜘蛛の糸に、成り得るのだろうか。

ご案内:「路地裏」から『脚本家』さんが去りました。