2016/01/29 のログ
ご案内:「転移荒野」にヨキさんが現れました。
ヨキ > 風が唸り、吼え猛る。
巨大な黒い影が、土埃を舞い上げて夜の荒野を疾駆していた。

口から吐き零した金色の焔が、細く尾を引いて闇の中に残像を残す。
脇腹からばたばたと垂れ流す血が小さな飛沫となって、地面に点々と軌跡を連ねてゆく。
いずれの個体ともつかず古びた、死んだ生き物の血。

広々と開けた地平にはもはや天地の境もなく、暗澹たる黒だけが視界に重く圧し掛かってくる。
犬はまるで確かな導にでも追っているかのように、ただ走り続けていた。

冬の夜の冷たい風。

身を切るような空気の中に、やがて潮の気配が交じる。

ヨキ > 犬が辿り着いたのは、夜の海だった。
切り立った断崖を厖大な波が打ち付ける、そこは常世島の突端だ。

重い足が地を踏み締められるぎりぎりのところまで、足を踏み出す。

伝承を借りたと見える、弱水と呼ばれる大海原。
顔中に吹き付ける潮風に、まるで人間のような仕草で金色の目を細める。

闇に浮かぶ、微かな障害灯。まぼろしでないのなら、ひとつ、また一つ、二つに三つ。
切れ切れと散らばる小さな光と光を結び合わせ、はるかな離島に鎮座する建物の形を想像する。

――その方角に建つのは、他ならぬ常世財団の本部だ。

ヨキ > 果たして自分が教師としてあの島に立ったことがあるのか、実際のところヨキは記憶していなかった。
学園草創期のある種混沌とした日々の中で、丸きり悪い夢を見ているかのようだった。

神仙のように舞いながら、しかして神通力を持たぬヨキは波を超えることも出来ず、岩壁の上に立ち尽くして離島を眺めるばかりだった。
神仏はおろか、星にさえ祈らぬヨキの、それは拠りどころであったのやも知れない。

「……………………、」

この常世島にこそ人びとが生きるのならば、こちらは現世、あの島こそが真なる『常世』ではなかったか?

“是の常世国は、神仙の秘区、俗の臻らむ所に非ず”。

推し量ることすら叶わず隔てられた彼岸を前に、天を目がけて犬が鳴く。

ヨキ > 肺腑の息をすべて絞り出すような、長い長い咆哮。
喉を絞って声を嗄らし、潮風を無尽蔵に吸い込んでまた吼える。
言葉にならない感情を虚空に叩き付けているかのような、暴風めいた声だった。

今は、対岸から返る声はない。
同じ獣の呼び声が戻ることもない。

聞く者が在るかも定かでない遠吠えを、欠け始めの月へ発し続ける。

息を吐き尽くすに合わせて、喉奥から金の焔がごうと唸った。

ご案内:「転移荒野」に橿原眞人さんが現れました。
橿原眞人 > 「……よう、ワン公……というにはいささか立派すぎる体だな。こんな夜にお散歩かい。
 怪我もしてるみたいだが……」

冬の夜。欠けた月の下で。
黒髪の少年が、コートをなびかせながら姿を現した。
彼の目の前にいたのは、犬と言うにはあまりに巨大な何かであった。
黒い毛並みをたなびかせた巨体。成人男性ほどの大きさがある。

今までこういう存在を見たことがないわけではないが、眞人がイメージする犬としては大きすぎた。あるいは狼か。
鉄の臭いがする。よく見てみれば、首などに傷を負っている。何かと戦った後か、と眞人は目を細める。

(まずったな……どう見ても普通の存在じゃないな)

犬の長い長い咆吼を聞きながら、彼はその黒い何かに声をかけた。
望んだ遭遇ではなかった。電脳世界からの転移――眞人は今や、その存在ごとを電脳世界に転送できるようになっていた。
ある理由によりそれを人に見られたくはなかった。現実世界に復帰する際には、なるべく学生街などからは遠い場所を選んでいた。
そして、今日選んだのがちょうどこの場所だった。そこで、目の前の存在とばったりとであってしまったのだ。
余裕ありげに声を掛けてはみたが、実際は焦りのほうが優っていた。

相手はあまりの巨体に、激しい咆吼をあげていた。
見つかれば襲われるかもしれない――ということで、先手を打ったことになる。あるいは、それは間違いになるかもしれないが。

その異様な姿に、自身が追っている存在の可能性もあると判断したためだ。
警戒を重ねつつ、相手を見据える。電子魔術はいつでも発動できるようにしていた。
もちろん、いざとなれば電脳世界に逃げるという手もあった。

弱水の海、中国の神仙郷にあるという海だ。『日本書紀』にも常世国に至る際に渡る場所とされている。
対岸に常世財団の本部を見ながら、眞人は巨体と相対した。

ヨキ > 少年の声がした。

血が溢れそうな喉を、ぐぶる、と汚らしく鳴らして、獣が振り返る。
その巨躯は、踏み締めた地面を見た目よりも重たげに窪ませた。

向き合った顔を見下ろす。

繕いも侭ならず荒れた毛並みが、ごわごわと波打っている。
がふ、と小さく開いた口腔の奥が、ランタンのように光ったのが垣間見えたろう。
並ぶ牙はくろがねの色をして艶めき、ぎらぎらと粘つく眼光が胡乱に揺れていた。

いつ襲い掛かるとも知れない、威圧的な巨体――は、しかし少年に向けて身を躍らせることはしなかった。
げう、と何事かを言い掛ける。

――もしもあなたが異能者ならば、獣が思念を通じて問い掛ける低い声を、脳裏に受け取ることだろう。

《……きみこそ》

《斯様な荒れ野に、何の用だ》

それはけだものの様相にはとても不似合いな、随分と理屈っぽい、理性あるものの文法だった。
自分には敵意のないことを示すかのように、身を低く屈める。

橿原眞人 > 「……ま、この時代、これで驚くほうがどうかしてるんだろうが。
 なるほど、こうして会話をするのか」

眞人は目の前の獣に言った。手で前髪をかきあげて、それを見上げる。
波打つ毛並み、光る口内。牙や瞳は妖しく輝いている。
兇悪さをそのまま絵にしたような形では、あったが――

予想したような、敵対の兆候は見られなかった。
眞人の脳裏に、声が響いたからだ。それは獣には似合わない理知的な響きを伴っていた。
声からすれば、雄か男か。しかしよくわからない。ただの動物で無いことは明らかだった。
目の前の獣は、身を低くかがめた。襲いかかる様子も見せない。
眞人もそれを見て、術式の構築を一旦やめる。
相手がどのような能力を持っているかもわからない。下手に警戒させても面倒であった。
武装解除といったところである。

「……別に、用なんてない。散歩ってところさ。
 ここなら一人に慣れるだろうと思ったんだが、あんたが既にいたってわけだ」

薄く笑ってみせる。本来こんな時間にこんな場所で散歩などするはずもない。
苦し紛れ的な返答である。真実を話すつもりは毛頭なかった。

「……あそこに用か? あそこには入れないぜ。一般生徒や教師はあそこにはいけないぜ。
 さっき見てただろ。常世財団の本部。まあ、よくわからない連中だ。
 気になるのもわからないことはない」

あそことはここから見える離島のことだ。
目の前の巨体のおかげで視界が遮られているため、少し横に歩いて常世財団本部を指差す。
気にならないどころか、眞人は元はあの常世財団のメインサーバーに侵入しようとしていた。
結果としては失敗であった。今は特に試してはいない。

ヨキ > 《この姿を見たものは》
《逃げるか、襲い掛かるか》

《もしくは》
《君のように会話を試みるか、だ》

大きな口が、ぐふ、と吊り上がったように見えた。
器用でない獣の筋肉で表情を作ろうとする様は、些か人間的でもあった。

少年の返答に、獣が目を伏せる。

《………………、そうか》

散歩だという言葉に、返事を短く返した。
それが少年の本当の答えでないことを、獣も察しているのだろう。

財団の本部を見ていたことを指摘されると、顔を上げて背後の海を見遣る。

《……知っている。入れないことは》

大きな頭は、振り返るだけで風を切る音がする。

《手立てなど》
《無くとも構わん》

向き合った少年の顔をしばし見つめたのち、獣はいよいよ四足を折り畳んで地に腰を落ち着けた。

《……ヨキだ》
《学園で教師をしている》

《見ての通りの、犬だ》

獣の様相と、遠く離れた飼い主に向かって吼える姿と。
そのどちらを指して犬と呼ばわったかは定かでない。

橿原眞人 > 「……なんだって?」

目の前の獣の放った言葉に眉を動かす。

「ヨキ……教師……そうか、ヨキ先生か。
 そりゃあ、俺みたいな一般生徒よりは学園について知ってるはずだ。
 俺が見た先生は、人間の姿をしてた気がするけど……まあ、珍しくもないか。
 おこん先生は狐だしな」

ヨキのことを知っているように言ったものの、名前と遠目に姿を見たことがある程度だ。
常世学園のWEBサイトの教員紹介で名前を見た。
後は校内で一度見かけた。それだけだ。関わりなど内に等しい。
たしか、その時見た姿は多少特殊ではあったものの、概ね人の姿だったはずだ。
どちらが本当の姿なのか、眞人には判断がつかなかったが。

「……そりゃ、見たらわかるよ」

犬だ、と言われれば苦笑を顔に浮かべる。

「あいにく、先生の授業は取ったことがないんだ。
 俺は異能学と魔術学、あとは歴史が専門でね。確か……先生は、美術だったっけ。
 あんまり縁が無い世界だ」

相手が教員と知れても眞人は砕けた口調のままであった。特に悪びれた様子もない。
人によっては失礼に聞こえるということまでありうるだろう。
とはいえ、様々な価値観が入り乱れる世界だ。敬意の表現の方法に統一された形があるわけでもない。

「俺は橿原眞人……ただの学生だ。よろしくお願いします、先生」

わざとらしく礼をしてみせる。

「まあ、ここで何をしていようが先生の自由だから、何でもいいんだが。
 つまり、雇い主? である財団に向けての咆吼ってことか。
 ここに来たらいきなり吠えてたんで少し驚いちまったよ」

ヨキ > 《元々は、獣の方が本当だ》
《昔はこんなに汚くも、傷付いても居なかったがな》

《今は、人間で居る方が楽だ》

眞人と名乗った少年の、砕けた語調にも特に気にした風はない。

《ふ。君の方こそ、ヨキには縁遠いことを学んでいるな》
《君が手ずから作品を作らずとも、歴史から芸術に触れてみるも良いやも知れんぞ》
《人の歴史の傍らには、常に芸術が在った》

巨大な身体から発される言葉は、不釣り合いなほど教師然としていた。
橿原君、とその名を呼んで、身じろぎのような会釈を返す。

《……随分と肝の据わった“ただの学生”だ。只より高い物はないな》

鋭い爪の見え隠れする手で、顔を拭う。

《驚かせて済まなかったな》
《教師とて、たまには大声を出すとすっきりとするものなのさ》

《例え、出口がなくとも》

《何がどうなる訳でもなくともな》

橿原眞人 > 「……普通に話しちまったが、先生はその怪我は大丈夫なのか?
 血の匂いもするぜ。こんなところでのんびりしてるようにも思えないぜ。
 人の状態が楽ならそうしたほうがいいんじゃないか? 先生が元の姿のままで今いたいってんなら自由だけどな」

彼の傷を見て言う。
ただ、口ぶりからすれば昨日今日にできた傷でも無いらしい。
今はこちらと普通に会話しているのだから、あの傷もいつものことなのだろう。
あまり怪我のことを詮索するものでもないと眞人は思い、それ以上は尋ねなかった。

「なるほど、美術史。すると……先生は《大変容》以前の美術なんかも知ってるわけか。
 先生の授業を取ってみるのもいいかもしれねえな。
 俺は《大変容》以前の事に興味があってさ。異能も魔術も、そして先生みたいな存在も。
 “普通の人間”は架空の存在だと思ってた時代だ。
 俺も、多分先生も、直接は《大変容》以前の世界は知らないはずだ」

だろ? とヨキを見て尋ねた。無論、《大変容》以前の“地球”にも、神話上・伝説上の存在はいたらしいというのは眞人も知っている。
《大変容》によってそれらが表の世界に現れた。《帰還》とも呼ばれる所以の一つだ。
彼がそのような元より地球に存在していたものなら、《大変容》以前のことも知っていることになる――

「……何、慣れるよ。このくらい。前に破壊神を自称する奴に出会ったこともある。
 あんときよりはだいぶマシだぜ。教師ってわかったんだ。じゃあもう恐れる必要もないだろ。
 生徒を襲う先生がいるはずもねえ、普通ならな」

隣にいるのは巨体を誇る犬だが、その言葉はまさに教師のものだ。
随分と肝が座っていると言われれば、一瞬無表情に彼の方を見たが、すぐに肩をすくめて苦笑を浮かべた。

「先生もストレスがあるってことか。まあ、そうだよな。
 こんな混沌とした世界、まだちゃんとまとまりきれてない世界で教師なんかやってるんだ。
 俺達より大変なのはわかるぜ。……しかし、出口か。
 すると先生は、この島から出たいのか? 別に出れないわけでもないと思うんだけど」
なんとなく聞いてみる。
眞人はヨキのことは何も知らない。彼が異邦人であるかどうかも。
ただ、彼の口ぶりはまるでここから出られないといったような響きを持っていた。

「悪いね、色々と聞いて。俺も散歩で暇してたんだ。答えたくないことがあったら、別に答えなくてもいいよ。世間話だ」

ヨキ > 《昨日今日で付いた傷でもないのでな。治らないのさ》

《気が楽なのは、人の姿で居る方だが》
《こうして汚れた血を捨て、四本の足で思うさま駆け、腹の底から声を上げるのは》
《人の姿では、思うように行かないことも多くてな》

腰を下ろした獣が、吹き荒ぶ寒風をもものともせず、穏やかに目を閉じて応える。

《いや》
《ヨキが“かつて”の物事を知っているのは、人や文字や、残された記録によってのみだ》

《学園が出来て間もないころに、人間として地球へやって来て》
《それ以前は、別世界でそれこそ言葉も知らぬけだものをやっていたのでな》

《君ら学生が、知らぬことを知ろうとして学ぶことと、何も変わらんよ》

表情を作ろうとしている様子は見て取れるが、何にせよ犬だ。
それに語調もひどく淡々としていて、およそ感情の起伏というものには乏しく見える。

《……この島を出たいと、毎日考えていた時期があった》
《逆に、この島でなければ生きてはゆけぬのだ、という恐れに苛まれる日々も》

《今は》
《……そうだな》

《この島のために、島の外をも知らねばならないと》
《そう思っている》

《知らぬ世界で新たに得られるものがあるならば》
《掴まねばならないと》

眞人の謝罪に、緩く首を振る。

《多くを学ぶ君よ》
《君は、何を成し遂げたいと思うね?》

橿原眞人 > 傷のほうは気にする必要はなさそうであった。
ならば別段聞くこともあるまい、と眞人は彼の言葉を聞いて、頷くだけだった。

「確かに。なら先生も立場は俺達と同じだ。
 《大変容》の後に生まれた俺達と同じだ。俺も先生も、“かつて”を経験することは永遠にできない。
 ……まあ、当たり前のことだけどな。俺も先生と同じだ。残された記録と記憶を辿った知識によってのみかつてを知ることができる。
 俺達が当然としてきた世界――それが、突如現れてしまった、旧世紀の人の気持ちを真に知ることはできないんだろうな。
 俺は、知ることしかできない。先生が経験した学園の初期というのも俺は経験していない。だから、知識だけだ」

目を瞑り、フと笑いを浮かべる。そして首を横に振った。

「変な話をしてしまった。何を当たり前のことをいってるんだろうな」

目の前の獣は島の外を知らねばならないと思っているといった。
眞人はそれに同意するように頷く。

「……そうか、外か。でも、きっといずれはそうなるだろうさ。
 この学園は未来のモデルケースだ。外に向かって結果を配信できなきゃ意味が無い。
 先生みたいな異邦人がこの地球でうまく暮らしていけるようにしないといけないわけだ。
 外は……この学園みたいに、いろんなものが共存で来てるわけじゃない。先生にとっては、ここのほうが確かに安全かもしれねえ。
 ……でも、知りたいっていうんだろ。俺が成し遂げないことも、同じさ」

一旦息を吐き、思案するように。

「昔の事が気になってるっていったけど、文字通り、世界がひっくり返るような現象が《大変容》だった。
 そして、その世界の安定した形、未来の形としてできたのがこの学園だ。
 昔はうまくできすぎてるんじゃないかと思ってた。常世財団のこともだ。
 いきなり現れてこんな学園を作って、今はあの海の向こうだ」

ヨキから目を離して、弱水の海の彼岸を見る。

「《大変容》を起こしたのは、常世財団じゃないか、と思ってたこともある――おっと、今はそんなことは思っちゃいない。
 《大変容》の原因はわからないままだ。ただ偶発的なものだったって可能性もありえるだろう。
 常世財団は、この世界に安定を齎したのは間違いない――だけど、俺は真実が知りたいんだ。
 俺の家族は偶発的な“門”の出現で死んだ。まあ事故みたいなものだ。珍しくもない。
 その時に思ったわけだ……俺は真実が知りたいってね。こんな世界になってしまった、その理由を。
 その時はこんな世界にならないほうがよかったと思ったもんだ。別に交通事故で家族が死ぬ可能性だってあるのにな。
 ……まあ、そういうことがあって、俺はここにいる。世界の真実が知りたいんだ。
 もっとも、そんなのは無いかもしれない。」

自嘲気味に笑い、肩を揺らす。

「仮に真実を知ったとして、俺がどうこうできるわけもない。でも、俺は知りたいというその欲求のままにここまできた。
 知ったところで何ができるわけでもないかもしれないが、それでも知りたいんだ。
 かつてと、今を。だから、それだけだ。別に何かを成し遂げようなんていう立派な目的なんて無いよ。
 正直に言えば、まだ《大変容》が起こらなければ、俺の人生も違ったかもしれないなんていう、子供じみた復讐心があるのかもしれない。
 この世界を変えてしまった奴らがいるなら……なんて。ただの妄想だよ」

ヨキ > 《下手をすると、人間としては君よりヨキの方が若いかも》

小さく鼻を鳴らす。

《記録は常に強者が残すものだ。
 我々にとっては唯一の手立てであるそれが、真実から歪められているとしてもな》

眞人と『人の言葉』を交わすうち、獣のの刺すような視線も幾分か和らいだように見える。

《この地球上いずれの国でもない島が、外にどれだけの影響を及ぼしているかは判らないが》
《……ヨキは人間になってからずっと、この島と共にやって来た》
《見届けねばならん。この島と、ヨキたち教師が育てた学生らのことを》

《さもなくば、ヨキはこのまま何もかもに置いてゆかれてしまうからな》

《人にも、時代にも》

相手が語る言葉を、まっすぐに顔を見ながら聞く。
脇腹の下敷きにした土に、血にしては異様に赤黒い滲みが小さく、じわりと染みる。

《……そうか》
《“大変容”がなければ起こり得なかった事故ならば》
《その因を知りたいと願うも、自然なことだろう》

《自然な欲求だからこそ、果てがない》
《君にはきっと、“知り尽くした”と思う日は来ないんだろう》

《だがそうした者たちの味方になることが、ヨキの使命でもある》

《恥ずべきことは何もない》

橿原眞人 > 「――教師としての責任か。どこまでも先生なんだな、先生は。
 確かに先生は先生に向いてるぜ。善き先生というわけだ。
 俺には多分できない。自分の見知らぬ世界に来て、人を教えるなんてことはな。
 先生はそれをしているわけだ。この世界で生きていきながら。
 それは大変な労力に思える。そして、この世界の未来に必要なことだと、俺は思う。
 先生は異邦の民だ。俺達に対する責任なんて、本来は別に無いのかもしれないぜ。
 俺は先生が、先生をしようと思ったことに尊敬が持てるよ。
 それでなお、今に取り残されないようにしている。
 俺は自分自身のことで手一杯だ」

視線が和らいだ気がした。ヨキの口調は淡々としており、表情も獣故に眞人ではあまり読めない。
感情が読みづらいため、言葉のみで判断するほかなかったが、好意的には受け入れられているようだ。
ともすれば、異邦人である彼がいる現在を否定するような言葉である。不安がないわけではなかった。

彼の脇腹からあふれる滲みを見る。
大丈夫とはいわれたものの、見ていて安心できるものでもない。
その箇所からそっと目をそらす。

「……ありがとう。異邦人である先生にそう言われると、安心するぜ。
 求めようもないことを求めているかもしれないが……それでも知りたい。
 世界に真実なんてないかもしれねえ。先生のいうように、“知り尽くす”こともないかも。
 ……先生の授業、取ってみるよ。
 俺より人間としては若いかもというけど、先生の言葉の深さみたいなのは、やはり俺より長く生きてる証拠だ。

 ああ……真実を知って、前へ進む。そして俺の成すべきことを成すんだ。
 それがまだ何かは……わからないんだけどな」

月明かりの下で俯く。何かしら眞人も抱えているものがある。それを今話すつもりはなかったが。

「そして、自分の中に残る後悔を精算する。俺の無知のために後悔したことを、それだけで終わらせないためにな。
 ……今日は変なことを離して悪かったね、先生」

ヨキ > 《教師の他に、生き方を知らんという訳だ》
《……だからこそ、行き詰まることもある》
《君ら“学生”の視点を、知らぬが故に》

《だからヨキも、学び続ける》

互いにな、と眞人を見遣る。
彼が伏せた目の先に何を見ているか、問うことはしない。
横臥する獣が微動だにしないのと同じように、二人の距離もまた。

《因を求めるものに、ヨキは最大限の助力をしよう》

《その矛先、くれぐれも違えるでないぞ》
《“因”ではなく“責”を――闇雲に求め、その志を濁らすことのないように》

どしん、と前肢を突いて、一息に立ち上がる。
鉄塊が動いて立ち上がったかのような質量。

《話してくれて有難う、橿原君》
《ヨキはいつでも、君を待つ》

《君が、ヨキの授業に来てくれることを》
《君が――君自身の行く末を晴らす日のことをな》

言って、眞人の傍らを徐に歩き過ぎる。

《血腥い獣と長居をしては、いかなる輩が寄って来るとも知れんからな》

《……ではな。また会おう》

目配せをして、地を蹴る。

あれほどまでに鈍重に見えた身体が、ひとたび風のように加速する。
血も鉄も毛皮の臭いも、やがて潮風の中に消えてゆく。

明くる日を避けるかのように、夜明け前の荒野の向こうへ姿を消した。

ご案内:「転移荒野」からヨキさんが去りました。
橿原眞人 > 「――ああ、先生。また会おう。矛先を間違えるつもりはない。俺は俺の求めているものを知っている。
 また学園で……ま、俺が学園に戻るのは少し先になるかもしれないが。
 俺は先生がどういう存在であろうとも構わない。この世界ではあまり違いは意味のないことだ。
 先生が先生であるように。俺は生徒として、学ぶことで行く末を探していくぜ」

ヨキの言葉に薄く笑った。
彼の去る姿を見る。素早い動きなどできないように思われたそれは、あまりにも軽やかに消えていく。
潮風の中に、彼の痕跡はかき消されていった。

「……あんな姿をしてるのに随分と理知的なもんだ。さて、もう朝だ。
 帰るつもりだったが、一つまた没入するとしよう」

朝焼けが昇ろうとしていた。眞人は荒野を歩き始める。

「教師に対して随分と話しちまった。良くないことだ。しゃべりすぎたか。
 ……まあいいさ、気づかれるようなことはいっていない。
 先生、あんたと俺との行く先は果たして同じなのかな。
 俺は、この世界、好きじゃないぜ」

――眞人の体が電子の記号に分解されていく。
いくつもの数列の配列がプログラムを書き出していくように。
その身体は電子記号の塊となって、静かに電脳世界へと消えていった。

ご案内:「転移荒野」から橿原眞人さんが去りました。