2016/11/05 のログ
■ヨキ > 「なあに、出向とは言え、時間はあろう。本土の大学の話を、ぜひ聞いてみたくてな。
それに君は本が好きだと言うから、話を聞くのがとても楽しそうで」
この常世島での暮らしが長いと、地球人とは出自が異なるという自覚も麻痺してくるもののようだ。
幸作の驚きように、きょとんとして呆気に取られる。
「……ん?そうだ、犬だ。
ははは、比喩ではないぞ。本当の犬だ。イヌ。ドッグ。シヤン。カニス」
犬という犬の語を列挙しつつ、自らを指差す。
どこからどう見ても人間であるからして、犬の要素はまったく見当たらなかった。
「真っ当な人間になれたのは、つい最近だがね。
ヨキは犬から始まって、少しずつ人間になったんだ」
子どもが大人に成長するがごとく、犬から人間になったのだ、と。
まこと不可思議な、常世島の奇妙奇天烈の一端であろう。
「ヨキに驚いていたら、異邦人街へ足を運ぶと失神してしまうやも知らんな……。
あすこはこのヨキでさえ、日々新鮮な思いをしているからな」
■有賀 幸作 >
「い、犬でありますか」
ドッグまでしか分からなかった幸作は、そこでまた密かにヨキとの格の違いに歯噛みをしたが、続く驚愕がそんなものは一瞬で打ち消してしまう。
犬から始まって人間になる? どんな手品の御題目だというのだ。
ダーウィンを鼻で笑い、進化論に罰点をくれるような戯言である。
余十年前なら誰もがせせら笑ったろう。
だが、今は既に《大変容》も遠い昔となったこの浮世。
しかも、此処は異界の際の常世島である。
どうして、それを一笑に付すことが出来ようか。
「は、ははは、いや、申し訳無い。
どうにも、自分は学者としては何と言うか、既存のああだこうだに捉われ過ぎる体がありまして……今この事実ですら、私には己が正気を疑うには十分な有様でして。
いや、なんともはや……これで驚くのが私でありますれば、ヨキ先生の楽しめるお話を出来る自信はありませんなぁ、はははは」
異邦人街がパンフレットには危険と記された意味が、今ならよくわかるというものだ。
■ヨキ > 「なるほど。とすると、もう少し早くに君と知り合っていたら、もっと肝を冷やしておっただろうな。
少し前まで、ヨキは耳がな。……ほれ、あすこを行く犬のような耳の形をしていたんだ」
ヨキが見遣った先には、飼い犬と思しきレトリーバーを散歩させている者の姿があった。
舌を出して歩く犬の頭に、ひらひらと揺れる耳。
幸作から見えるであろうヨキの横顔には、人間と何ら変わりない耳が付いているというのに。
「すると有賀君、君はいきなり異界に放り出されてしまったということになるな。
はははは。ご愁傷様」
激しく動揺しているらしい幸作に、不謹慎なほど楽天的に笑った。
何せこの島こそが、ヨキの住んでいる場所なのだから。
「心配はないとも。君も恐らく、この島のパンフレットか地図くらいは持っているだろう?
地図に載っている街区は、みな治安が行き届いているのでな。
何も恐ろしいことなどないから安心したまえ」
■有賀 幸作 >
「は、はは、学者としては、異界への逍遥は喜ぶべき事とは言えますがなぁ、はっはっは……」
あんな犬耳が正に生えていたら、なるほど確かにそれは「異邦人という奴であるか」と納得はしやすかったろうが、驚愕は間違いなく先払いになっていた事だろう。
初対面故、ヨキが冗談を言っているのか、真実なのかは分からないが、一つ分かることがある。
いずれにせよ、目前の麗人は、麗人ではあるが、それ以前にかなり茶目っ気の強い奇人であるという事だ。
異界最初の案内人としては、これほど「らしい」人物もそうおるまい。
そう思えば、安堵と共に苦笑が漏れた。
この島なりの最初の歓迎こそが、正しくヨキという教師の形を象っているのやもしれぬ。
しかし、その最初の歓待が思わぬ不穏を口にした。
「載っていない地区? それはすわ、スラムという奴でありましょうか?」
このように見た所は日本と何も変わらぬ島であるというのに、そのような不穏があるというのか。
疑問と不安が同時に、鎌首を擡げた。
■ヨキ > わっはっは、などと軽薄な調子で笑っていたのも束の間。
『地図にない地区』への指摘に、不意にぽりぽりと頭を掻く。
「うむ……。何と表現したらよいか。
この島には、まだ手が入っていない原野も残っていてな。
その一帯が、異界と通じやすいという話なのだ。
実のところ、ヨキも初めは異界からその荒れ野に辿り着いたのだよ」
――はてさて。
脳裏が混迷を極めるであろう幸作は、果たしてヨキの言葉をどのように判断したろうか。
“異界に通ずる奇怪な荒野”の話に恐れ戦くか――それとも。
“スラムという語を、肯定も否定もしなかった”ヨキの不器用さを見て取るか。
このヨキなる男は、嘘や誤魔化しが実に下手であった。
「君がよほど命知らずな研究者でない限り、港から西へは出向かん方が賢明であるぞ」
■有賀 幸作 >
「な、なるほど……確かに、異界との接触が殊更多いこの島ともなれば、道理でありましょうな」
冷や汗を垂らして、ヨキの言葉に背筋を冷やす。
スラムの有無を否定しなかったこともそうだが、それ以上にこのヨキという男をしてその空白は「出向かない方が賢明」即ち、「危険である」と確と口にしたのである。
命知らずでないのならば向わぬ方が良いと、明らかに己よりも強靭かつ賢明であろう男が言ったのだ。
そこで「やあ己には関心のないことだ」などと磊落に言える程、幸作に度量は無い。
「いみじくも親愛なる先生のお言葉です。是非とも、私もそれに倣い、出向くのはこの地図内に留めましょう」
最初、微塵程は存在した嫉妬やら、男児としての僅かな対抗心はどこ吹く風か。
最早、幸作は冷えた肝を隠さずもせず、そう臆病風を吹かせた。
そうしたところ、丁度、ホームに次の列車の到来を示すチャイムが鳴り響く。
「おや、そろそろ、時間でありますか」
■ヨキ > 「ああ、そうしてくれたまえ。君の身に、もしものことがあっては堪らんでな。
ヨキはこの島の楽しみを教えるのが務めであると同時、君を危険から守らねばならんのだよ」
難儀な土地だろう、と眉を下げて笑い、ぴらぴらと手を振る。
「常世島の正義を守っておるのは、風紀委員と、公安委員と、このヨキだ。
何か困ったことがあれば、いずれかを頼るとよい」
美術教師を名乗ったはずのヨキが、今度は正義の味方を自称した。
「事実は小説よりも……などと言うが、ここはまさしく君の読んできた本がそのまま立ち現われたかのような島だ。
もしかすると、筆を執りたくなることもあるかも知れんぞ」
列車の到着が迫ると、行こうか、と相手を促す。
「それでは次に会ったときには、街の各所を巡った感想でも聞こうかな。
ふふ。やってきた人々をこうして持て成すのが、ヨキの楽しみでなあ」
そうしてまずは、図書委員会を目指そうと。
それだけの道行きの合間にも、人間のみならず、亜人や動物のような姿をした者たちと、数多く擦れ違うことになるはずだ。
果たして幸作の肝が持ち堪えてくれるかどうか、到着までは心配は尽きぬことだろう。
ご案内:「地区ごとの駅」からヨキさんが去りました。
■有賀 幸作 >
「もし、筆を執ることがありましたら、その時は是非とも添削願いますよ。
先生は私よりもずっと読書家でもありそうだ。きっと、忌憚なく、それでいて良質な感想を頂けることでしょう」
それこそ、忌憚なくそう幸作は呟いて、掛け声と共にトランクを引き上げる。
同時に、列車がホームに現れ、その口を開いた。
「その持て成しを十二分に労える感想を言えるよう、私も努力しましょう
それでは、先生。また」
相変わらずの下手糞な笑顔でヨキに手を振り、幸作は列車に乗る。
向かう先はいざや常世島。その奇々怪々の中心地。
冷えては跳ねる肝が持つや否か。
それこそ、己が程度も知れぬ幸作には未だ、知る術も由もない事であった。
■有賀 幸作 >
「しかし、正義の味方……であるか」
そう考えると、己に甲斐性を見せたこれも、彼の正義のうちであるのだろうか。
「ともすれば、それはそれで中々に洒落の利く」
まるで狐に摘ままれたかのようだ、と思ったところで幸作は笑った。
「思えば狐も、イヌ科に属する何某であったな」
ご案内:「地区ごとの駅」から有賀 幸作さんが去りました。