2015/08/11 のログ
ご案内:「路地裏」に朽木 次善さんが現れました。
ご案内:「路地裏」に『脚本家』さんが現れました。
■『脚本家』 > ──……ぞわり。
嫌な汗が背中をつうと伝った。
早かろうが遅かろうが、何時かは来るもの。
皮肉にも、そんな言葉が口をつくことはなかった。
黒光りする、黒曜にも似た漆黒の銃身。
此の引き金をひとつ引いてしまえば、全てを台無しにすることが出来て。
見慣れた筈の其れは、如何にも普段の其れとは全く異なるような印象を放って。
静寂沈黙の中、彼女の手よりも一回りだけ大きな朽木次善の手がそうっと触れて。
「────、」
先刻から言葉は出ない。
心音だけが大きく、まるで相手にでも伝わってしまうのではないかと思う程に鼓動を重ねる。
こんなものは見慣れたと思っていたのに。
──随分と、落第街では日常的に見られるものだのに。
ただ、目の前の彼が手に持つようなものではなかったから、此処まで動揺しているからなのかもしれない。
……──何故、こんなに手が震えそうになっているのか。
人の命は等しく無価値で、等価値なものだったのではないのか。
自分と相手以外には誰もいない。
最後の舞台になるかもしれない此処で。
「成程───、
此れは素敵なアドリブだ、実に素敵な」
声は幸い、震えることはなかった。
ただ、引き金に添えられた人差し指だけが小さく震える。
震えそうだった手は、彼の手によって支えられて銃口を逸らすことすらも許されない。
今の彼は普段の心象とは全く違う。果たして此れがゲームならば何をすれば勝ちなのか。
辛勝すらも出来る気がしない。待つのは大敗のみ。
「…………此れを引けば、君は死ぬ」
ジェットコースターの急降下前の静けさのように。
嵐の前の静けさのように。
森閑音無、一切の音が掻き消された路地裏。
否、周りの音など聞こえるような状況でないだけかもしれないが。
「なァ、朽木次善。
此れで容赦なく僕がひとつ引き金を引けば君の今まで積み上げてきた───
君が周りと築いてきた何もかもが台無しになるのを解っているのかい。
其れも踏まえた上で覚悟が出来たって云うのかい」
調子を徐々に戻して。
『強き弱者』に相対するは『弱き強者』が相応しい。
引っさげた弱者の、唯弱い一条ヒビヤの面は今は全く不用だろう。
自分の敵になると宣言した彼に相対するには失礼だろう。
「矢張り君は弱者じゃない、暴力的なまでの───」
『脚本家』は語る。もしかすれば騙るのかもしれない。
今となっては彼女自身も解っていない。
『小道具』を手にして、じわりと口元の紅が三日月に歪む。
Expectation is the root of all heartache.
(期待はあらゆる苦悩のもと)
屹度彼に期待していたんだろう。彼の見せる世界に、『現実』に。
だからこそ此処までの逡巡と苦悩が胸の内を巣食うのだろう。
「あァ、付き合おう。
君が『教えて呉れる』って云うんだ。
僕が長く、長く待った最初の君への願いを果たしてくれるって云うのなら──」
一拍。逡巡することもなく続く言葉を一息で吐き出す。
「喜んで、誘いには乗ったさ───朽木」
……、真っ直ぐに。
此の瞬間刹那1分1秒、他の誰彼風景を見ることもなく。
『脚本家』は、朽木次善の目だけを、捉えた。
■朽木 次善 > ――仄暗い路地裏。
思えば、この歪な関係の全てはここから始まった。
偶然だったのか、彼女の言うとおり、脚本通りだったのかは分からない。
だが、『弱者』は『異端』と出会い、その価値観に触れた。
片方は罪を知らず、片方は罪を知って欲しかった。
音もなく静謐。
鼓膜が破れそうなくらいの無音。
心音すらも空気を通じて感じられそうな、絶対静。
朽木次善は、一条ヒビヤに銃を握らせ。
そしてその撃鉄を起こした状態で自分の頭に銃口を向けさせている。
指はすでに彼の手で引き金に載せられている。
数センチ引けば、回転を含んだ破壊が人間の頭蓋など簡単に貫通し、
蹂躙し、そこに、確実な死を齎す。
今までの19年近い人生の中で、朽木次善は一番自分が死に近い位置に立っていることを自覚する。
僅か数センチ、指先が動くだけで自分の死が訪れるその場所は。
――ヨキ教諭との会話を終えたあの日から。
ずっと思い描き、覚悟していた『場所』だった。
だから。
今更誰にも謝らないし、膝も震えることはない。
銃口が向けられたのは今じゃない。
あの日あの時、ここに至ると決めたときからゆっくりと。
『弱者』らしくゆっくりと、身体をその死の縁に慣らしてきた結果だ。
それが伊達や酔狂や虚勢であると思われれば、こんな策には何の意味もなくなってしまう。
相手の手を握っているのは、相手の心的動きを少しでも読み取れればという目論見があった。
そして、彼女の表情を、この暗闇の中でも見逃すまいという計算もあった。
今まで。
この距離で、朽木次善が『脚本家』と話したことは、ない。
「識っています。
だからこその『覚悟』ですから。
俺は、自分が絶対に死なないとは思っていないし、
勿論自分の命を簡単に捨てようとも思っていないです。
明確な勝算とは絶対に言わないまでも、無意味でないなら。
――俺は、何回だってこの生命を壇上の賭け台の上に載せると思います」
恐怖を忘却したわけでも、覚悟でそれを塗りつぶしたわけでもない。
自分のような何も持たない者が、彼女に相対するには、それしかないのだと。
『弱き強者』が者を騙るなら。
『強き弱者』は物を騙ればいい。
塗布せず、隠し、懐に人の心を残しながら、冷徹に相手にその牙を突き刺す。
狡猾にも巧緻にも巧妙にもなれない自分が出来るのは、ただその単純な策だけだと。
そう確信したからこそ出来る、一手だった。
「だから。
もし、貴方が俺の言うことが分からず、
そして一切俺という存在に心を動かされないなら。
俺はこの『壇上を去ります』。そのための引き金は、文字通り今貴方の指の中にある。
聞くに値しない、何一つ理解できないのなら。
貴方は、すぐにでもそうすべきだと、そう思います。
――俺より優秀な誰かが、きっと貴方にもっと正しい形で、罪を教えると思いますから」
だが。
今は自分の番だ。
誰かが自分より上手くやれるからといって、手番を次に渡すことは出来ない。
誰かがやるかもしれないでは、誰もやらないことを、誰よりも――朽木次善は知っていた。
誰かがやるかもしれないことを、己が行ってきたからこそ、知っていた。
脚本家の目を見たまま言う。
「貴方の言う『脚本通り』という言葉。
そして、それによって導かれる、変わらない事実を受け入れるためには、そうするしかないと言う言葉。
それすらも物語の中に取り込み、脚本として飲み込むという、貴方の言葉は。
それは――本当に本心ですか。
俺は、それが、納得出来ない。
貴方の言う『脚本通り』が、納得が出来ないんです」
責めるでも、否定するでもなく、ただ尋ねるように――そう呟いた。
■『脚本家』 > 黙って彼の言葉だけを耳にして、その他雑多な音なんて聞こえないような静寂の中で。
四角く切り取られた路地裏の天は朽ち果てたミラノスカラ劇場から見た其れとも同じで。
──初めて自分と向き合ったヨキ、と名乗った教諭と出会ったときとも全く同じ夜色を湛えて。
また時を変えて彼女と向き合っている男がいる。
此の夜色のカァテンこそが彼女が誰かと向き合うのには必須なのかもしれない。
罪を知らなかった罪人は、罪の意識に苛まれる。
此れは相対するのが朽木次善だからなのかはわからない。
わからなくても。
明らかに初めて得る感情。
この情感情動は今迄見てきた、書いてきたどの感情とも違う。
思わず、膝が笑う。
一条ヒビヤは朽木次善に銃を握らされ。
そしてその撃鉄を起こした其れを彼の額に突き付けられ。
指はとうの昔に彼が丁寧に引き金に彼女の人差し指を絡めている。
自分は労することもない、たった数センチの運動で人間一人が死ぬ距離。
間違いなく、彼自身が此の世界に別れを告げることになるのは明白だ。
彼女は自分の手で誰かを殺すことは少なかった。
其の相手が誰であるかも知らず、何を感じることもなく『強者』は異能を振るった。
『強者』は魔術を振るった。『強者』は力を振るった。
されどこの拳銃は。橙の灯りを受けてじわりと黒光りする『小道具』は。
目の前の人間を確実に、確実に破壊することを語っていた。
自分の指一本で目の前の彼が倒れ伏し、世界から居場所を奪われる。
脈打つ心の臓もじきに止まり、冷たいナニカと化すのだ。
それは一条ヒビヤでも容易に想像できた。
ならば、彼はどれだけの恐怖感を踏みにじり、どれだけの───
笑いが零れて落ちた。
「………、とんだ『覚悟』じゃあないか。
嗚呼、実に美しい覚悟だ。
今迄見てきたどの演劇よりも、僕の書いた脚本のどれよりも───」
嘲笑ではない。大笑でもない。哄笑でもない。
嗚呼、此の笑みを言葉で表することは『脚本家』でも出来まい。
笑い。ただ、笑いだ。其れ以上でも其れ以下でもない。
彼女が浮かべる表情は、活きた、実に生きた笑い。
「簡単に何回だって賭け台の上に乗せる、なんて云うものじゃあない。
刺しても死ぬ。車に轢かれても。
運悪く電車の事故に巻き込まれても、落第街の喧嘩に巻き込まれても。
───僕が此処で引き金を引いても」
気圧される、とはまさにこの事であろう、と。
幾度となく書いたト書きの気圧されたように、と云う文字。
内心、気圧されるの何も解っていなかったじゃないかと独り言ちる。
………、彼女は気付いていないが、微細にこの瞬間も手は小さく震える。
彼に対し高圧的な音を鳴らし続けていた底の高いブーツも今はダンマリを貫く。
無音。
彼女と彼以外の音は何かに吸い込まれたかのように聞こえない。
そして声はやけに響くように感じる。
目を逸らすことなく。
真っ直ぐと向けられた視線に応えるように、切れ長の瞳を向け続ける。
「如何だろうな──」
はん、とひとつ鼻を鳴らす。
『脚本家』の最後のプライドだと言わんばかりに。
「………、屹度。
屹度本心ではないんだろう。
────本心ではない」
騙る言葉は剥がれて落ちる。
「そうしないといけなかった。
本来であれば、泣いて、獣の慟哭のように叫んでしまいたかった。
屹度言い訳に使っていただけなのかもしれない。
されど──この言葉は、嫌いじゃあなかった」
ぽたり、と水滴が頬を伝い落ちる。
「けれど今は嫌いだ」
「君を撃たなければ『脚本通り』にならないと云うのなら。
僕はそんな脚本、千切って火にくべてやりたいとまで思う。
そんな脚本、面白くもなんともない」
何かを割り切ったように。吐ききったように。
抱えていた全てを、長年自己の確立にさえ使っていた言葉を。
踏み躙った。
■朽木 次善 > 大きく息を吸い。吐く。
銃口を額に向けたまま。それは安堵ではなく――
胸の中の思いを正当に整理するための深呼吸だ。
頬を伝う水滴にも、きっと彼女自身は気づいていない。
だったら自分もまた、それには気づいていい段階ではない。
「……きっと。
俺は、そう言ってくれることを、願っていました。
俺と最初に出会い、会話を持ちかけた時点から、
心の何処かでそう思っていたのかもしれません。
貴方は俺のことを『面白い』と、『興味がある』と、そう表現した。
それは、脚本に本当に縛られた者が口にする言葉じゃない。
だから。
きっと貴方は、そうやって自分を納得させようとしているんじゃないかって。
そうであればいいと、思っていました」
それはきっと。
心の底から残酷な仕打ちではあるけれど。
それも――今までの数日間で、『覚悟』してきたことの一つだ。
蓋盛教諭の言葉が、脳裏に浮かぶ。
――「不死身のバケモノを殺すには、まず愛さないといけない」
ヨキ教諭の言葉が、脳裏に浮かぶ。
――「共に傷つくことが、理解の第一歩だ」
だから自分は。
愛情という物を騙り、己の罪悪感ごと相手の身体を罪悪に打ちつけることにした。
朽木の杭は通りが悪いが、躊躇いなく押せばきっと、強者の心臓くらいは貫き得ると。
そう思い、自分の生命を賭けの壇上に載せるという『全力』で、押し込んだだけの策だった。
額に触れた銃口が、人の熱で僅かに温度を持っている。
「……俺が連れてきた此処こそが。
きっと、貴方が訪れたかった壇上だ。
ここにある死は、観客でも、脚本家の者でもなく――ただ演者の物です。
それは演劇における最低限の条件だと、俺は思います。
その壇上で、貴方だけが。
唯一貴方だけが、自分の死に対して、己の死に対して、
正面から向き合っていなかった。
どうせ誰かの脚本の上だからと誤魔化して、
起こってしまった何かに対しての正当な償いという形で諦念を抱き、
本来グランギニョルの中でも、崇高であるが故に失い難いことで描かれるはずの死を。
貴方だけが、真正面から捉えることをしていなかった。
だから俺は。
そんな理由で、貴方が死なないといけない、生きるのを諦めていい理由には、ならないと。
――そう、思います」
そんな劇では。
誰の心も、きっと動かないだろうから。
「貴方は。
本来ならば泣いて、獣の慟哭のように叫んでしまうべきだったのなら。
そこで泣き、叫べばよかったんだと、俺はそう思います。
それでも、そこから自分で選んだ道を、困難であろうとも『脚本』として描き、
進んでいけるのならば……本当はそうすべきだったんだ。
今からでも。
その道を歩いて行こうとは思えませんか」
自己の確立すら足元から崩れそうになっている少女に向けて、
再び、相手の感覚における事実を確認するように尋ねた。
■『脚本家』 > 言葉を聞ききって、薄く笑う。
今まで書いて、演じてきた感情が全てごっちゃになったような。
笑うしか、出来なかった。
「下らない脚本だな、もしこれも脚本なら最低の脚本家だ。
───筆を折るのを勧めるくらいに、才のない脚本家だ。
されど、とてもいい『人生』を書く脚本家なんだろう」
彼と最初に出会った時も。
不死鳥の羽拾いに来ていた日恵野ビアトリクスとヨキ教諭と出会ったときも。
劇団フェニーチェの団員に、初めて迎え入れられた時も。
屹度期待していたんだろうと思う。
彼らから、自分の目を逸らした『現実』を垣間見ようと。
本当は、死ぬほど見たかった『現実』を、どうにかして手繰り寄せようと。
彼の言葉に心は揺らいだ。
────「今からでも。その道を歩いて行こうとは思えませんか」
小さく瞼を閉じる。ひたすらに彼を映していた瞳は、今はなにも映さない。
彼の甘言は、自分にとって驚くほど渡りに船だった。
もっとこの世界を知りたい。『現実』に触れてみたい。
されど、同時に自分たちの──自分の犯した罪の重さを識った。
こんなにも生きたかった、こんなにも見たかった明日を。
こんなにも素晴らしい、劇的な『現実』を。
演劇、と称して。奪ったのは自分自身だった。
そんな明白な事実を前に、償えるものではない、ということも同時に理解した。
残酷なまでに『不死身のバケモノ』は、どうしようもなく『人のココロ』を識ってしまって。
同時に、焦がれるような愛も。
今迄創作の中にしか見出せなかった愛が──騙られたものであっても──
此の『現実』に存在することを識ってしまった。
痛いくらいに。朽木の杭は、これでもかと。
ぶすり、と。深々と一条ヒビヤの心の臓を抉り貫いた。
もし本当に刺さっていたとしたら、彼女が流す涙と同じように。
其れ以上に、ぼたりぼたりと。赤黒い其れが垂れ流れていたことだろう。
丁寧に掛けられた引き金から、指を外す。
「────、朽木、君」
縋るように。依存していた言葉を、舞台を喪った彼女は縋るように。
其れで居て、十分に石のように固い意志を抱いて、言葉を紡ぐ。
「屹度、恐らく僕が今感じて居る此れが罪悪感で。
同時に愛なんだと思う、恋慕なんだろうと思う。
そして───死んでいった人間が、これから味わうかもしれなかった。
既に大事な何かを持っていたのかもしれなかった」
閉ざした瞼をゆっくりと持ち上げて、困ったように笑う。
「誤魔化して、目を逸らして、逃げて。
必死に見ないようにしていた『現実』の味を識ってしまえば。
此の現実は禁断の果実以上に甘美で、美しくて、何よりも素晴らしいものだと解ってしまう。
いいや、解ってしまった。
奪ったものの重さを同時に知った。尊さを知った。
これはもう──、零れたミルクは元には戻らない。覆水盆に返らず。
・・・・・・・・・・・
起きてしまったんだ、取り返しがもうつかないんだ」
だから、と言葉を継いで。
手の震えを隠すことなく、その『拳銃』を握って。
「殺して呉れ」
言葉が零れた。胸中に隠して、押し殺しておくべきだった感情の渦に呑まれた。
「そうじゃないと僕は、本当に死と向き合えない。
奪ってきた命に顔向けが出来ない、死んで償おうなんて短絡的なことも考えていなければ
死んで楽になろうなんて思っちゃあいない。許されるなんて以ての外だ。
今の僕にとって死は苦痛だ。何よりも苦痛だ。
死にたくない。もっと、もっといろいろな世界を見ていきたい」
だから、と言葉を継いで。
「僕は、生きているだけで幸せになれる。
今君が教えて呉れたから知ってしまった。世界の美しさを。
演劇なんかよりずっと、ずっと生きた感情で溢れていることを。
本来此の景色を見る筈だった人間から其れを奪った僕が幸せに生きるのは筋違いだ。
<<免疫>>に囚われることすら、喜んで受け入れる。
お願いだから、殺して呉れ」
「権利だ義務だなんて話は全く関係ない。
僕は、見られない。一度此の素晴らしさを味わってしまったから。
僕は、死ぬべき人間だ」
手を、膝を震わせて。懇願するように、縋るように。
「────屹度僕は自分で自分に引き金を引けないから。
生きたいから。もっと面白いものも、素敵な現実を見たいから。
未練しかない。そんな未練を抱えて死んでいった人間がたくさんいるのに、」
「僕は生きられない」
「此れで僕が生き続ければ、それこそ最低な『脚本通り』だ」
■朽木 次善 > 殺して呉れ、と。
懇願するように、切望するように。
『強者』だった者は、『弱者』だった者に、縋りつくように呟いた。
死は苦痛で。
受け入れたくないから。
一思いに、恋慕が恋情に変わってしまう前に。
その花を摘み取れと、彼女はそう言った。
「違う……。
俺は、それだけは違うと思います。
誰かの納得のために、死んでいいなんて状況は――ない。
生きたいならっ……もっと面白いことを、素敵な現実を見たいなら――ッ。
その先にある道こそが、貴方が脚本家として描く脚本じゃないんですかッ……!!
生きていることが幸福となるなら、
その幸福にすら苦しんで生きていくべきだ。
それは他ならぬ貴方が創りだした、貴方を永遠に閉じ込めておく檻であるから。
道の描き方が分からないなら、
だったらッ……!!
だったらそのための道は、俺が切り開きますッ……!!
誰かに許されないのなら、同じ許されない道の上で必死に償うことの方が、貴方に相応しい罪だと、俺は思うからッ……!」
抱いた熱は。
きっと最初は怒りだった。
それは弱者にとって、灼熱の業火となりすべてを祓い、熱を以って鍛え、強固な理論を作り上げる礎となった。
でも今は、きっとそれだけじゃない熱がこの胸の中にあると。
そう思ってすらいる。
それに自分は名前を付けられない。
だからこそ物を騙り、わかりやすい形で伝えることを是とした。
ただその熱は。
――相手の身体を焼くだけの炎でないことくらいは、自分だって分かっている。
「――俺が貴方の道になります。
『次』を希求するのを、辞めないでください。
確かに、貴方が見た完成された演劇は、素晴らしい物だったかもしれません。
でも、その幕はもう降りた――だからもう一度その公演を願うのではなく、
それを超える何かを見つけ出すことこそが、貴方が願うべきことだったんじゃないんですか!!
誰かが書いた脚本の上で、その脚本が犯した瑕疵を応急の形で壇上で取り戻すのではなく、
それすらも超越した貴方が描き求める『脚本』を、貴方の手で創ろうとすることこそがッ……!
貴方が、貴方の人生の脚本家として、本当に求めるべきものだったんじゃないかって。
そう、思うんです。
何もかもを諦め、起こってしまったことを嘆き、
終わってしまった劇場で床を見つめ、目の前にある自分の道にすら気づかず、
受け入れがたい終わりだけを道とするの『脚本』なんか、俺は認めないッ!!
そのための道が見えないというのなら、そのための道を進むことが出来ないというのなら、
俺が、貴方の罪を知る俺が貴方の道となり、貴方の道を作る俺が貴方の罪となる。
俺は。
――貴方を赦さない。
貴方の罪を知り、貴方の罪に触れ、それを直視してなお、
それを仕方のないことと切り捨てるなんて、絶対に出来ない……ッ!
だから。
頼むから。
――いつまでもその灯りの消えた劇場で、楽しさの残滓を抱えて。
何かに怯えて俯いたままでいるのは、辞めてくれませんか。
もしかしたら貴方という存在が、社会的や<<免疫>>的に許されないことで、
それを理由にして手に入らないことがないとは、俺は絶対に言いません。
でも、だからってそれを最初から諦めていいとも思えないッ!!
貴方が間接的に奪った生命も。
そしてその生命を奪われたことで幸福を失い、
空虚を抱えて生きていかなければならなくなってしまった誰かも。
皆平等にその目的に向かって生きているんだから。
俺は――そんな理由で、貴方が生きるのを諦めることが、絶対に赦せないッ……!!
独りで歩けないというのなら。
俺が道を作ります。
――手も取ります。
もしかしたらそのことで、俺自身が罪に問われたとしても。
これから先、その目の前に居た誰かに手を差し伸べられなかったという欺瞞を抱えて生きていくよりは、
よっぽど俺にとっては納得の行く俺なりの答えになりますからッ!!
だから。
――苦しみながら、生きてください。
――いつかその罪悪に身を焼かれ、ボロボロになって死ぬまで。
出来るだけ。
その道を、俺が――整備もしますから。
その苦しみに手を添え。罪の形に、同じだけ苦しむだけの覚悟が、俺にはある。
だから。
それが、俺の――。
朽木次善の――……」
――願い。
そう、続けるつもりだった。
だが、口の端からこぼれ落ちたのはその熱い、熱い言葉ではなく。
――今まで一度も見たことのない量の"鮮血"だった。
銃弾は発射されていない。
それどころか発砲音も、何もなかったはずだ。
前触れのない吐血に混乱が生じ、自分の身体に何が起こっているかも、暗がりでは理解出来なかった。
次いで、痛みが襲ってくる。余りの鈍痛にその痛みの出処が分からない。
顔を歪めた上で、探るように懐に手を伸ばし――それに触れた。
何かが。
"何か"が、自分の腹腔を貫き、血を滴らせていた。
「……っ……」
喀血と同時に、身体が衝撃にブレる。
横から殴りつけられたというよりは、何かに掴まれて投げ出されたような感覚があった。
見えない、大きな手によってまるで玩具のように路地裏の壁にぶつけられて、身体中から痛みが衝撃となって反響する。
地面に落ち、路地の地面に倒れ伏しながら、霞む目を開け、見上げる。
――そこには。
硬質化した毛髪から、朽木次善の腹を貫いた残滓の鮮血を垂らしながら、
真っ直ぐ、殺意しか込められていない瞳を『脚本家』に向けた。
一人の少女が立っていた。
――カガリ。
その名前が、思い浮かぶ。
孤児院。『脚本家』。慰問。公安委員会。
犠牲者。孤児。フェニーチェ。犠牲者。
――あのとき。
俺達が帰る間際に、一条ヒビヤを呼び止めて。
「また来てくれるか」――そう、尋ねた少女。
異能の発現と同時に暴発して親を殺してしまった。
異能があった所為で親から見放されることになってしまった。
そんな彼女の中で「どこにでもいる」と評された子どものうちの一人として。
その目に殺意を。そして、その手に発現したばかりであろう異能を携えて――。
■『脚本家』 > ただ静寂の中に響く彼の声を、一字一句漏らさずに聞いて。
言葉を抱いて、飲み込んで、反芻して。
夜の落第街に、悲鳴にも似た声が響いた。
屹度何処にでもある痴話喧嘩に。其れは屹度何処にでもある喧嘩に呑まれる。
感情を隠すことなく、全てぶちまけるような。
最早感情激情の嘔吐だ。
「───、君の価値観ではッ、だろう──ッッ!
だから、だから──……僕の言葉を、否定しないで呉れッッッ!!!
関係ないだろう、僕が君に求めたのは。
『僕に罪の味を教えること』と『僕を殺すこと』だけだッ──。
だから其れ以上でも其れ以下でもない、其処で終わる関係に決まっているじゃァないかッッ!!!
踏み入らないで呉れよ、其れ以上、僕に惨めな思いをさせないで呉れよ──ッ!
………、自分を憐れむようになって終えば、もう僕は。
僕は僕として生きられない。今迄犯した罪を忘れることになるッッ!!
何で、如何して!!
君に利益なんてほんの一つもないッ!
何で其処まで、切り開くなんて云えるんだ──ッッ!!
無責任に人の心に踏み入って呉れるなよ、此れ以上、僕を、僕をッッ!!!!」
飼った激情は。
屹度初めは此処まで熱く、滲むようなものではなかった。
其れは強者にとって、葬送の猛火となり全てを灼き、熱を以て融かし、騙った言葉を剥がす切掛けになった。
されど今は、そんな猛火とは比べ物に成らない位に、熱く、焦がれる炎を見て。
理論を模しただけの、陳腐な自分は焼け落ちてしまった。
ただ其の激情は。
──屹度誰かが劇場に放った炎よりも、ずっと熱い熱に呑まれてしまった。
「──甘い事を云って呉れるな。
僕に『次』なンて与えないで呉れ………頼むからッッ………」
息をすることすらも苦しい。
ひゅうひゅうと喉が鳴くのを抑えることはできない。
胸を締め付けるような痛みと、其れから感じたことのない刺すような痛み。
「縋って何が悪いンだ、そうしないと、そうしないと僕は僕で居られないッ。
僕はそうやって生きてきたッッッ!!!
だから、僕を否定しないで呉れよ、もう、じゃないと───
もう、一字一句脚本なんて綴れないッ!
僕がずっと抱いた夢も、ずっと甘んじていた役職もッ!
ただの一条ヒビヤなんて面白みも何もない、此の世界に何も残せないッッ!
誰かの記憶に残ることもない!
憶えていて貰えるかも解らない、『脚本家』で居たかった───ッ!」
居たい。痛い。
如何にも収まりきらない感情は、朽木の杭を刺された傷口からぼたりと垂れ落ちる。
其れこそ失血するように。絞りきれば何の残滓も残らないくらいに。
ずっと叫びたかった言葉が、ひたすらに地面を叩く。
「君までッ!
────巻き込みたくないンだッッ!!!
本来君は!朽木次善は僕みたいな奴とは関わるべきじゃあなかった!
陽の当たる場所で、精一杯ッ、生きればよかったッッッッ!!!
外れた関節を直すために生れついた訳じゃァないだろうッッ!!!
なァ!!
僕の所為でそンな、本来は歩まなくてよかった道を作ることはないッ!
間違ってる、其れはエゴだ、紛れもなく君の自己満足だよ朽木次善ッッ!
自己満足で罪を背負って呉れるな──ッ!
だから!だから生きたいンだ!
君みたいな馬鹿が此れからどんな世界を描くのか──……!
僕の目で見届けたいんだ、嗚呼、なんだよもう───……
……、苦しんで、呉れるなよ………」
瞑目。目を逸らすように、初めて逃げるように目を瞑った。
彼の言葉だけを。視覚を介さず、聴覚だけで捉えようと。
其の一瞬刹那。
彼の紡いでいた言葉が止まった。初めは間を取ったのだろうと思った。
されど、感じた其の鉄のような匂いは、間違いなく。
間違いなく目を開かずとも解る血の匂いだった。
「────ッッッ!!」
初めは公安か其れとも、此の島を守る<<免疫>>かと思った。
其れならば自分が撃たれない筈がない。
果たして、一体。如何して。何が。思考の坩堝に一瞬にして叩き込まれる。
悲鳴を上げるより先に、握った拳銃を強く、より強く握った。
広がる赤は、朱は、赫は。
紛れもなく朽木次善のもので。
悲鳴すらも、声を上げることすらも出来なかった。
ゆるゆらりと視界を見渡す。
暗い、夜の落第街では如何せん視界が悪い。
瞬きをひとつ、ふたつ。
「───君は」
視界に入ったのは、何時か見た少女の姿で。
髪を赤く、赤黒く彩った少女で。
其の姿を見遣れば、一瞬で理解が出来た。
「………、また、会えたな」
死にたくない。未だ生きたい。ずっと此の世界を観ていたい。
自分の先にある未来を掴んで、歩いて、───
溢れる生への執着を堪えて。
至極普通に、なんでもないように。激情を、其の胸に飼った激情を押し殺して。
『脚本家』は、嗤った。
■朽木 次善 > ――喉奥から、血塊が溢れる。
貫かれた腹の隙間から自分の腹の中に詰まっていた物が溢れているような感触すらある。
恐らく――彼女の異能は、毛髪の硬質化と操作。
痛みで赤褐色になりかけている意識の中で、理論として分解しようとしている自分を感じた。
だがそれ以上の痛みが、歩行すら、発言すら困難な物として、地面に身体を縛り付ける。
少女が言った、「もう一度来るかどうか」は。
一条ヒビヤが泉鏡花としてもう一度来ることを期待しての発言じゃなかった。
――彼女は、もう一度、一条ヒビヤが孤児院を訪れることを確認しようとしたんだ。
胸の中の殺意を潜めて。
自分の父親――公安委員会の犠牲者の仇を取るために。
彼女に異能があるという話は聞いていない。
だからこそ、今このタイミングであり――そしてそれを行う理由が余りにもありすぎる。
理由があり、方法がある。
だから――強者の前に、他の何をも目に入らないような目をして。
立ちはだかっているのだ。
自分は、害意を向けられたわけではない。
彼女を……『一条ヒビヤを殺す』ために邪魔だったから、排除されただけだ。
やめろ。
頼む、やめてくれ。
喉奥から血が溢れて、言葉が出てこない。
這ってでも進み、どちらかを止めなければ、確実に結末が訪れてしまう。
一条ヒビヤは殺して呉れと言い、
孤児であるカガリは彼女を殺すだけの理由がありすぎる。
そして彼女の手の中には銃がある。
今や自分の覚悟のために込めた銃弾は、人の生命を奪う凶器となっている。
どの要素を取っても、今この空間には死が溢れている。
ダメだ。
ダメだッ……!!
やめてくれッ……!!
彼女が生きたいと願えば、
自分を殺しに来たカガリに向けて銃弾を撃ちこんでしまう。
そうすれば、彼女はまた罪を重ねて、
今度は確実に赦されない罪悪の中に身を投じる事になる。
そして彼女が言葉の通り死にたいと願ってしまえば、
カガリの異能によって殺され――カガリ自身が今度は罪を背負うことになる。
異能の発現によって殺意を成就することで、
孤児であるカガリ自身が一条ヒビヤと同じ『罪人』に堕ちる。
どちらを選んでも。
確実にどちらかは永劫の罪悪に身を投じなければならない。
どちらかが。
『相手を殺せば』――。
それは――必ず殺される方も、殺した方も不幸にする。
完全なる袋小路がそこにある――。
笑う。
彼女が、其処で笑うんだ。
全てを理解して、全てを受け入れる。
そんな――顔をして。
―― 一条ヒビヤではなく『脚本家』として。
だから。
俺は。
――あらん限りの力で。
――生命が潰えてしまいそうな掠れる声で。
――口の端から飛び散る血もそのままに。
――力の入らない身体で、全力で叫んだ。
「――ダメ、だ……ッ、頼むッ……!!
――『殺すな』ァっ……!!!
――『殺されるな』ァアッ……!!!!」
ご案内:「路地裏」にヨキさんが現れました。
■『脚本家』 > 少女から視線は逸れる。
次に彼女の瞳が捉えたのは、血に染まった朽木次善だった。
紛れもなく『自分の所為で』『自分の生で』彼は現状、血の中に居る。
自分と出会わない可能性があったら。自分が一条ヒビヤでなかったら。
───『こんな展開に巻き込まれることはなかった』。
ガン、と。
厚いブーツの底が血に染まりゆくアスファルトを叩いた。
動かない頭を必死に動かす。
『一条ヒビヤ』なら此処で狼狽するのだろう。
此処で獣のように叫び、泣き、頭を抱えて、生きたいと啼くのだろう。
「なァ、」
されど、彼女は。最後の最後まで下手なプライドを捨てきることは出来なかった。
彼女は、最後まで。最期まで───『者を騙る』のだ。
「復讐かい。
父親を殺された組織を動かしていた人間に対する復讐かい。
───そんな年端もいかない君がするようなことじゃァないと思うんだけどね」
『脚本家』は、彼女にぽつりと言葉を落とした。
復讐されるのは当然だろう、仇討ちされるのもまた当然だろう。
だから、其の全てを受け入れる。
───とはならなかった。朽木次善が否定した自分。全てを受け入れるな。
『脚本通り』なんて言葉を───
自分が生きるためには、自分を殺しに来た少女に向けて銃弾を撃ちこまなければいけない。
そうすれば、自分は永劫輪廻、許されることはないだろう。
其れをしなければ自分は少女の異能によって殺され――少女自身が今度は罪を背負うことになる。
自分と同じ、罪人の苦痛を味わわせることになってしまう。
其れも、自分の劇団の犯した罪の所為で。
どっちをとっても、誰も彼も救われない結末。
世の中の関節は外れてしまった。嗚呼、何と呪われた因果か。
「其れを直すために────生れついたとは」
救われない人々が巣食う此の世界を直すのは、随分と難しいことだろう。
同時に、救われなかった誰かを掬うのは屹度『正義の味方』であり<<免疫>>で。
ただ、目の前の少女一人くらいは。自分の力で何とかしてやりたかった。
───なんとか、自分と同じ罪人と云う道を辿らせたくはなかった。
故に。
「残念だったな、其の復讐は────」
少しくらい、恰好をつけたっていいだろう。彼も屹度、許して呉れるだろう。
あの子の為、とか云っても結局は自分の為なんだ、僕は。
こんなことで贖罪になるなんて思ってやいないけれど。
変に頭が冷えて困ったものだ、辞世の句を認める余裕すらあるんじゃあないのかい、此れは。
朽木次善と出逢えたのは最高のスパイスだった。
『団長』と出逢ったときと同じくらいに興奮したし、彼以上に興味を惹かれた。
嗚呼、此処で他の人間の誰より朽木次善についてしか出てこないあたり、
───僕はもう、彼に中々随分恋い焦がれていたらしい。
「その脚本は、書き換えさせて頂くよ───」
「僕は『脚本家』なんだ、生憎ね」
嘲笑と、ほんの少しのスパイスを。
───嗚呼、実に人生は素晴らしい。屹度此れは、誰の脚本通りでも──
狭い落第街の路地裏に、一発の銃声が響いた。
倒れ伏したのは少女ではなく、『脚本家』だった。
あれだけ生きたいと願って。あれだけ殺して呉れと縋った彼女は。
自らの眉間を、何の逡巡もなく撃ち抜いた。
反響残響。
落第街では何時でも聞くことが出来るこの発砲音が、辺りに響いた。
当事者以外からすれば『いつもの日常』。
ただの何処にでもある拳銃自殺。
其れでも、彼女は意味があると思った。
意味があると思ったから、其の引き金を引いた。
極限の二択を、自分の手で、底の厚いブーツで踏み躙ってやろうと。
悪人らしく、少女の気持ちなぞ考えずに目の前で死んでやろうと。
『演じて』やろうと。
『七色』や『癲狂聖者』に鼻で笑われた脚本家の。
『共作者』にも似合わない、とクスクス笑われた脚本家の。
『鮮色屋』には「ヒビヤは脚本だけ書いてろ」と馬鹿にされた脚本家の。
『美術屋』に「悪くはないけど、うん、悪くはないけど」と気を遣われた脚本家の。
『墓堀り』には腹を抱えて笑われた脚本家の。
『死立屋』に至ってはゲラゲラと三日三晩笑われた脚本家の。
『伴奏者』には美しくないと一刀両断された脚本家の。
一世一代の迷芝居を、遺してやろうと。
ばたり、と。乾いた音だけが響いた。
■朽木 次善 > 乾いた音が、路地裏で反響した。
その一部始終は、仄暗い路地にあっても。
自分の脳裏にしっかりと焼きつく程に――鮮明に映り。
まるで自分が見る走馬灯のように、ゆっくりと、ゆっくりと。
二度と。
――絶対に二度と忘れられない光景として、残った。
もう声も出ない。
指も動かせない。
何一つ出来ず。
路地裏に蹲ったまま。
それを――ただ一人の全てを知る観客として、見届けた。
どさりと。
その光景にショックを受けたのか、或いは緊張の糸が解けたのか。
カガリが倒れる音が聞こえる。
顔を僅かだけ動かしてみれば、地面に倒れ伏していた。
髪の毛も、やはり異能で動かしていたのか普通の状態に戻っている。
自分は。
一条ヒビヤの最後に。
なんと告げた。
『殺すな』。そして『殺されるな』。
彼女は俺に、罪を教わり、自分の罪を知った上で、
生きたいと。そしてでも生きることが出来ないと叫んだ。
死なせてくれと。赦されないのならせめて死を呉れと叫んだ。
自分では自分のために死を選べないと、怖いと泣き叫んだ。
何も知らないまま。
何も分からないままなら。
きっとその慟哭も、悲しみもなく、
死への恐怖に怯えることすらなかったはずだ。
それを、自分は教えた。
彼女に罪の形を、罪の味を――何より、幸福の形を教えてしまった。
這う。
暗い路地裏を。
激痛が走るが、関係がない。
出来るだけ近くに。
彼女の近くに行きたかった。
――『殺すな』。そして『殺されるな』。
自分がそう叫んだから。
彼女はその第三の選択肢に気づいてしまった。
一条ヒビヤは、『脚本家』は共に――その選択肢を選べてしまった。
自分がただ犠牲になることで。
誰にも罪を押し付けず、ただそれを自己の罰として行うということを――。
――知ってしまった。
それは、自分が押し付けた罪と同じ形をしている。
自分は最後の瞬間。
何故――『死ぬな』と叫ぶことが出来なかったんだろう。
後悔。
どす黒い後悔が、腹腔から溢れて血肉となって溢れている。
食いしばられた歯の間から滴る血は、内臓から上がってきた血液だけではない。
彼女は弱くなんかなかった。
自分の罪に耐えられない程弱くなかった。
だからこそ、彼女は自分の眉間を撃ち抜いたんだ。
彼女自身の決断として。
そしてそこにはきっと。
カガリによって、朽木次善がこれ以上傷つけられることのないようと。
そんな願いも込められているように思えたのは――自分の自惚れだろうか。
■朽木 次善 > 息も絶え絶えに。
彼女の元へと這いずっていく。
――眉間を撃ちぬいた彼女の亡骸がそこにあった。
もう、彼女は喋らない。
泣かない。
笑わない。
怒らない。
これから先。
夢想した『次』は、永遠に来ない。
自分が教えた幸福な未来は、永劫に訪れない。
ありえたはずの可能性は全てが潰え、
行えたはずの全てのことは過去に消え去った。
もっと話が出来たはずだった。
もっといろんな場所にも行けた。
彼女のことを、自分は何も知らないし。
自分のことを、彼女に何も教えることができなかった。
一条ヒビヤのことも。
『脚本家』のことも。
――もう、何も。
「ッ……!!」
思い切り、地面を叩く。
叩いた地面をそのまま指でひっかき、削る。
爪先が削れる音が骨を通じて響き、思い切り歯を食いしばった。
「何故其処まで、切り開くなんて言えるかって。
俺に聞きましたよね……?
――それは、もしかしたら。
……俺は貴方のことが好きになれるかもしれないって理由じゃ……
ダメでしたかね……?」
ボタリと。
耐え切れなかった涙が。
後悔と、苦しみと、悲哀の入り混じった涙が、一条ヒビヤの頬を濡らした。
苦しかった。
悲しかった。
他の誰が彼女のことを赦せなくとも。
自分はその罪を、一条ヒビヤの苦しみを知ってしまったから。
世界でたった一人、その全てを知ってしまったから。
苦しくて、苦しくて、仕方がない。
その生命が失われてしまったことが。
苦しくて、苦しくて、苦しくて仕方がなかった。
「一条さん……。
俺の、負けです……」
それは。
誰が見ても。
そしていつ見ても分かる結果であり。
――朽木次善の、間違いない、敗北の形だった。