2016/08/20 のログ
ご案内:「露天温泉」に東雲七生さんが現れました。
■東雲七生 > 「いってー……」
陽が沈んで間もない転移荒野の片隅に湧く温泉に、七生は肩まで浸かっていた。
のんびりゆったり、という雰囲気にはやや遠い。
何故なら七生は苦悶の表情を浮かべている。温泉で気分転換、という訳では無さそうだ。
「……一発もろに入ったからなあ。」
軽く脇腹の辺りを摩る。
今日は例によって転移荒野に転移してきた巨大昆虫の駆除に動いていたのだが、不意打ちの一撃を貰ってしまったのだった。
その時の傷が、七生の脇腹にはしっかりと残っていた。幸か不幸か出血には至らなかったが、掌ほどの大きさの内出血が痛々しい。
そんなわけで、いわば今回は湯治目的である。
■東雲七生 > 「まだまだ油断が抜けてないって事かなー」
はぁ、と溜息を吐いて空を見上げる。
まだ西の方に朱を残した濃紺色の空は、幾つか星も瞬き始めていた。
「晩飯までに少しは楽になってると良いけど。」
場所が肺に近い所為か、呼吸をするだけで鈍い痛みが走る。
これでは普段通り走って帰るのに支障があったが故に、この温泉へと来たのだった。
入れば即回復、と言うほどではないが数十分浸かっている現在、此処に来る前に比べてだいぶ楽になった気がする。
それでも、まだまだ走り回れるほどでは無い。
ご案内:「露天温泉」にリヒットさんが現れました。
■リヒット > 「ぷー」
露天風呂の湯気へと向かって、スモック姿の小人が宙を漂って来ます。5~6個ほどのシャボン玉を従えて。
リヒットは温泉が大好き。
水の精なので、たとえ真冬であっても冷水に気分よく浸かれる体質ですが、たまには熱い水に浸かりたくなることもあるのです。
甘いものを食べ過ぎたら、たまには苦いもので口直ししたくなるように。
青垣山や未開地付近、僻地に湧いている温泉地もある程度は把握しています。温かい水が欲しくなったら、そういったところをとっかえひっかえ訪問。
あるいは住宅地の銭湯に入ったこともあります。ちょっとしたバイトで、お金も入りましたから。
……さて。湯気の立ち上る湯槽へと近づくと、そこに先客がいることに気づきます。
「……ん? ななみ? ひさしぶりー?」
上空3mほどの中空から、性徴の感じられない甲高い声が響きます。
■東雲七生 > 「……それにしても。」
昨日、模擬戦後に言われた言葉が妙に引っ掛かる。
『実は異邦人だったりするのかい』
脇腹を押さえたまま、その言葉を心の中で復唱する。
まさかな、と笑い飛ばそうとするには何だか重すぎる様に思えたのだが、
「……お、おう?」
ぼんやりとそんな事を考えていたら、急に頭上から声がして反射的に顔を上げた。
忘れられていた脇腹の怪我が、ぎしりと音を立てて痛みを発する。
「あいてて……よぉ、リヒットじゃん。
ひっさしぶりだなー!」
痛みに少し眉を顰めつつも、笑みを浮かべる。
顔を上げた先に居たのは、いつぞや海で出会った異邦人の少年だった。
■リヒット > 「ぷー、ななみだー。おひさしぶり。リヒットだよ。
リヒットもおふろ、入っていいかな」
言いながらリヒットはスモック姿のまま、裸足を水面ギリギリに付くまで高度を下げ、東雲さんの目の前に降り立ちます。
相変わらずスモックの下には何も着けてない様子。暮れゆく空の闇に滲むような深青の長髪が湯面に触れ、八方に広がっています。
……しかし、何かに気づいた素振りをリヒットが見せると、彼はさらに腰をくいと曲げ、目をまんまるに見開いて、湯に沈む東雲さんの裸体を覗き込みます。
「……ななみ、怪我してる? どうしたの? すっごい痛そう…」
■東雲七生 > 「おう、良いよ良いよ!
一人でぼけーっとしてんのもいい加減飽きてきたしさ!」
二つ返事で了承して、ついでに「服は脱いどけよ」と注意を促して。
それからじーっとこちらを見つめるリヒットに、何だか着恥かしさを覚えながら戸惑いがちに、
「あ、えーと分かるのか?……ちょっと昼間しくじっちゃってさー。
脇腹の辺りぶつけちゃって。ちょっと早いうちに治そうと思って温泉来たんだ、今日は。」
大体治って来てるから心配すんなー、とひらひら手を振って笑顔を向ける。
■リヒット > 「うん、じゃあ入るー」
東雲さんの脇腹の痛々しい内出血から目が離せないながらも、リヒットは無表情のままでうなずき、軽く指を振って周囲のシャボン玉を霧散させます。
そして、その流れで自らのスモックの裾を指で摘み、ピンと軽く弾くと……服までもがシャボン玉のように飛沫に弾け、消えてしまいました。
あとには真っ白な……わずかな傷も日焼けも伺えない、ほんとうに真っ白な小人の裸体が残っています。股間にはちょこんと男の子の証。
その体を音もなく水面下へと沈めていくと、湯に浸かった髪はスッと色を失って澄んだ水に同化し……すぐに桃色を帯びて再び輪郭を取り戻し始めました。
湯の温度が伝わるに連れ、髪は頭頂部までほのかな赤を帯び、真っ白なリヒットの身体もみるみるうちに朱がさしていきます。
「はふー……ぽかぽか、きもちいい。
……ふぅん、ぶつけちゃったんだ。こんなでっかい跡になるなんて、よっぽどすごいぶつかり方したのかな。
車かな。自転車かな」
湯気立ちのぼる温泉に顎から下を漬け、東雲さんの顔と、脇腹の痛々しい傷跡に交互に視線を遣りながら、案じる言葉を紡ぎます。
……東雲さんの脚の間に入り込むように陣取り、面と向かって。なんかすごく距離が近いです。
■東雲七生 > 「リヒットは堂々としたもんだなー
いやまあ、水着で温泉に入る方がおかしいのかもしんないけど。」
そこはそれ。
推奨されていないにしても、明確に禁止されてないのだから七生は水着を着用する。意地でも。
目の前の小人の体色の変化を面白そうに眺めながら、
すっかり朱っぽくなったリヒットが脇腹について言及すれば、バツの悪そうに頬を掻く。
「いやあ、車っちゃ車に近いけど……えっと、テントウムシ、知ってる?
あの赤に黒の点々が背中についてる虫。あいつのタックルを避け切れなくてさー。」
男同士だから距離が近い事には特に思う所が無いのか。
気恥ずかしげに笑いながら事の顛末を語って聞かせる。
■リヒット > 「んー、『せんとう』ではみんなすっぽんぽんだったけど、海ではみんなちょっとした服…みずぎを着てるね。
ヘンだとは思わないけどー……うーん。
お風呂って、すっぽんぽんで入ったほうが、気持ちよくない?」
傷に目を奪われて、その下の有様に気が回らなかったリヒット。
水着姿の相手の腰部をじっと見つめながら、湯の中でぱたぱたと桃色の脚を動かしています。
その小ささゆえ、足は底についていない様子。しかしながら、リヒットの身体は浮き沈みも見せず、安定して佇んでいます。
「テントウムシ。知ってるよ。リヒットは見るだけだけど。リヒットが触ると、たいていの虫は死んじゃうから。
……って、え? ななみ、あのテントウムシにぶつかって、そうなったの?
リヒットの指より小さい虫さんに負けたの? ななみ……」
つんと小指を立て、その爪先と彼の傷とを比べながら、首を傾げるリヒット。さすがに突飛すぎるお話です。
驚きの表情が、やがて哀れみを帯びてくるまで、そう時間はかかりません。
■東雲七生 > 「家の風呂ならすっぽんぽんで入るけど、
こういう広くて誰が来るか分からない所はちょっと抵抗あるなー……」
そういえば銭湯も行った事が無い事に気付く。
別に行かなきゃいけない理由も特に無いから今まで行かなかったのだが、全く興味無い訳でもない。
水着の着用が出来る銭湯なら、行ってみようかな、と思いつつ。
目の前でどういう原理かお湯の中でも安定して留まっているリヒットの頭を撫でようと、手を伸ばしてみる七生。
「あー、うん。知ってるか。
でも俺が怪我させられた相手は……リヒットが知ってる大きさじゃなくってな?
ええと……ちょっとした自動車くらいの大きさなんだ。」
流石に標準サイズのテントウムシに傷を負わされる七生では無い。
いや、もしかしたら小さくても馬鹿みたいに強い虫も居るのかもしれないけど、だ。
■リヒット > 「ぷ~」
頭を撫でられれば、撫でられるがまま。その感触は湯温より僅かにぬるい水の球体に触れているかのよう。
髪はさらさらと流れ、東雲さんの指に絡んでは解れていきます。
力を込めればリヒットの身体は僅かに沈んだり、首がぐらついたりもしますが、それでもリヒットのまんまるの瞳は目の前の少年に釘付けのまま。
「……自動車くらいの、テントウムシ」
東雲さんの発言を受けて、リヒットは想像します。……ぶるるっ、と目に見えて小人の身体が震えました。
それと同時に、彼の中で何かが繋がります。
「そ、それはぁ……こわいね。リヒットの知ってるテントウムシじゃない。
リヒット、習ったよ。この辺……『てんいこうや』の奥のほうには、かいぶつがときどき出てくるって。
その……『もん』を通って、別の世界から」
これまで東雲さんから外さなかったリヒットの視線がすっと伏せられ、星空の映る水面へと泳ぎます。
「ななみ、かいぶつとたたかったんだね。ななみ、強いんだね。
そのくらいでっかい虫さんだと、リヒットが触ってもきっと死なない。たぶん、リヒットのほうが死ぬ」
リヒットは小さな、蝉の1匹すら摘むのに苦労しそうなほどに小さな掌を開き、眺めます。
「……その虫さんって、どうしてこの島に来たんだろうね」
■東雲七生 > 「面白い手触りだなあ……」
ほうほう、と興味半分でリヒットの頭を撫でながらそんな感想を溢す。
頭を撫でるよりは撫でられることが多く、他人の頭の感触なんてそう詳しくなくとも違いは明白だった。
「そうそう、そこまで来ると怪物だよな。実際怪物だし。
だからあんまり一人で転移荒野はうろうろするなよ?
転移荒野以外で危なそうな生き物に遭っても、すぐ逃げるんだぞ。」
出来るだけ居住区にそういうのが向かわないようにはしているものの。
転移する場所によってはこちらが察知する前に居住区に侵入してしまうものも出る、と授業で教わった為か念のために注意するよう声を掛けて。
それから、リヒットの呟く疑問に、ふと表情が真剣なものになる。
「確かに、な。
もしかしたら、自分の意思とは関係無く来ちゃったのかもしれない。」
■リヒット > 「そうだよね。リヒットも……」
そう呟きかけ、やめて、リヒットは桃色の唇を真一文字に結びました。
落としていた視線を元に戻し、青くまんまるな瞳を再び東雲さんの顔に向けます。頭頂部の髪が東雲さんの掌をくすぐります。
……潤んだ瞳、その表面にきらめく漣は、まるで押して返す海面のよう。
リヒットも、その《門》を通じてこの世界に来たのでした。
自分の意思など関係なく、それどころか、別の世界が並行的に存在することすら想像の外だったうちに。
「……ねぇ、ななみは、どこから来たの?
『とこよじま』の外、海の向こうにはもっといっぱい、陸地があるって習ったよ。海の向こうから、来たの?」
話題を切り替えるかのように、リヒットは別の質問を口走りました。
■東雲七生 > 「あー……その、えっと。ごめん。」
そんなつもりは、と申し訳なさそうに眉尻を下げて一言お詫びを口に。
目の前の異邦人の少年も、自分の意思とは無関係にこちらにやって来たのだろう。それこそ転移荒野に現れる昆虫やその他の魔物たちと同様に。
そう考えたら、自分がやっている事が酷い事のように思えてしまった。
それでも、この島の住人の安全の為だから、と都合の良い言い訳を自分に言い聞かせる。
もし意思の疎通さえ出来れば、リヒットら異邦人と同様に共に暮らせるのだろうかと夢想する。
「……え?ああ、何処から……か。
多分、だけど。俺はずっとこの世界に居たと思うよ。
産まれや育ちは覚えてないから、絶対とは言い切れないんだけどさ。」
苦笑しつつ、空気を変えようとした話題変更に乗っかる。
自分の経歴が定かでは無いなんて結構問題がありそうだけど、それを察せられない程度には明るく答えた。
■リヒット > 「んーん、気にしないで。謝らないで。
テントウムシも、ななみも、しかたなかったんでしょ。ケガは痛そうだけど、ななみが死なないのは大事」
リヒットの故郷の世界には、『怪物』と呼べるような存在は稀有でした。少なくとも彼自身は見たことがありません。
それでも、森に棲む獣たちは人間にとっても時に脅威であり、人間たちが武器を担いで討伐に向かうこともしばしばあります。
争いもまた自然の摂理です。たとえ《大変容》によって時空の理がねじ曲がった世界であっても……。
……まぁ、生死の概念が希薄な精霊リヒットから見れば、そんな人間たちの闘いも傍観するものでしかありませんが。
そして、自らの身の上を東雲さんが語り始めれば、リヒットも目を輝かせながら聞き入ります……が。
「……たぶん? おもう……? 言い切れない……?
ななみ、ふしぎ。自分のことを話すのに、なんかぼんやりした話し方。
忘れちゃったの? 産まれたお家、小さかったときのこと。……それって、なんかかなしい」
明るく語る東雲さんとは裏腹に、その口調にひっかかるものを感じたリヒットの発言はなんとも素直で率直。
かなしい、と口走りつつも表情は変わらず仏頂面です。
■東雲七生 > 「まあ、ね。
もし人がいっぱい居る所に行っちゃったら大変な事になるし……
まあ、俺はちょっとやそっとじゃ死なないから、大丈夫大丈夫。」
それでも人間の内では小柄だから耐久力があるわけではない。
こうやって簡単に怪我もするし、呆気なく命を落とす可能性も絶対に無い訳でもない。
それは一番七生がよく知っている。だからこそ、大丈夫と言いきれるのだが。
「え?ううん……まあ、そんなとこ。
覚えてないんだー、この学校に来る前のこと。
でも、変な感じはするけど、悲しくは無いかな。
友達もいっぱい居るし、住むところもあるし。」
そう答える顔には寂しさが全くない訳でも無かったが、
少なくとも、別の世界から自分の意思とは無関係にこちらの世界に来ているわけではないから、
とリヒットに気を使って笑みを絶やさない。
■リヒット > 「ななみは、昔のこと、覚えてなくても平気なんだ。
かいぶつをやっつけたりもするし。強い。やっぱり、ななみはオトナだね」
小柄で、第二次性徴の気配すら薄い赤髪の少年。その半裸体を青い瞳で見つめながら、リヒットは軽く頷きます。
……オトナ。文字通りの意味の他に、最近はそれに『強い人間』という意味があることも覚えてきました。
リヒットの観念からすれば辛いと思うことを、辛くないと感じる人。あるいは辛くないと言う人。
「リヒットは、リヒットがいた世界……『とこよじま』に来るまえにいた世界のこと、覚えてる。忘れない。
友達もいっぱいいた。みんなとまた遊びたい。でも、忘れちゃうと、もう二度と帰れなくなる気がするから。
……でも、帰るためにここで勉強してるけど、勉強し過ぎると、忘れちゃいそうになる……」
リヒットにだって、この世界に居場所はあります。友達もいないことはないです。
ですが……いまある物事と同じくらい、過去もまた大事なものです。精霊にとっても、それはおなじこと。
「ななみ、昔のこと、思い出せるといいね」
■東雲七生 > 「平気というか、まあ、どうにもならない事だからなあこればっかりは。」
それをオトナと言っていいのかと、多少首をかしげてしまう。
七生の知り合いにももっともっと大人と呼べる人たちは居るし、それに比べたら自分なんて本当にちっぽけな子供の様に思える。
もしかしたら、目の前のリヒットの方がよっぽどオトナかもしれないとすら。
「うん、うん……そうだよな。
確かに、色々勉強してるとどんどん何か覚えてくと代わりにどんどん何か忘れていきそうな気がするよな。
……でも、忘れちゃ駄目だぞ。
忘れそうになったら、ちゃんと思い出して、忘れない様にしなきゃな。」
少しだけ羨ましく思えた。
自分には無い物を、目の前の精霊の少年はちゃんと大事な物として抱えている事が。
すい、とリヒットの髪を梳くように撫でてから、困った様な笑みを浮かべ、
「うん、サンキューな。頑張って思い出そうとしてみるよ。」
■リヒット > 「うん、リヒットは忘れない。ぜったいに、いつか、元の世界に帰る。
べんきょうはするけど、帰りたい場所の思い出は、しっかり思い出し続けるから。
ななみも、がんばってね……」
困惑気味の表情の少年に励まされながら、リヒットは自らの決意を新たにします。
そして、そんな彼に対してもまた労いの言葉を紡ぎますが、その語気はややすぼまり気味で……。
……リヒットは、シャボン玉です。
ただのシャボン玉を『リヒット』たらしめているモノ。それは経験、記憶。
世界の理――水の流れやシャボン玉という概念――が揺らぎ、普通のシャボン玉とは異なる挙動を見せ、異なる経験を積む。
それが重なって、普通のシャボン玉との乖離が増大した結果、『リヒット』という擬似人格が成立、人型を得たのです。
ゆえに、その小さな頭に詰まっている思い出や何やと言ったモノは、リヒットにとっては人間における血液にも等しい存在。
そして、目の前の赤髪の少年は、過去を思い出せないと言い、それでもへらへらとしています。
ここまでの会話の具合から、冗談でもなさそうです。
『過去がない』ということを、リヒットはなかなか理解できません。自らに照らしあわせようとすれば、存在自体が否定される事象。
それはとてもがらんどうで、暗くて、覗いても見通せない……。
……やはり表情には現れませんが、リヒットは内心、恐怖を覚えました。このななみという少年に。
どうしてこの人は、過去を思い出せないまま生きていけるのだろう。平気に笑っていられるのだろう。
ちゃぷ、とわずかな水滴を垂らしながら、リヒットの身体が音もなく持ち上がり、水面の上に浮かび上がります。
夏の湿った夜風のおかげで、朱に染まった身体や髪はなかなか青に戻りません。
「……ぷー。リヒット、温まったから、そろそろ帰るね。ななみ、またね」
軽く手を振ると、リヒットはくるりと身体を翻し、東の空へとふわふわ漂って去って行ってしまいました。
どこか、逃げるように。裸んぼのままで。
ご案内:「露天温泉」からリヒットさんが去りました。
■東雲七生 > 「おう、頑張る!
リヒットも勉強頑張って、帰ったら元の世界の友達に色々教えてやれよな!」
ぐっ、と両の拳を握ってファイティングポーズを作りながら、笑みを浮かべる。
目の前の異邦人の精霊の心中など察する術もなく、またそのつもりもなく。
がんばって、と言われたからがんばる、と返す。至極単純な理屈。
「おお、そっか。もう行くのか。
じゃあな、リヒット!またな!」
帰ると言われれば、此方も軽く手を振って応じて、
そのままふわふわ風に流される様に去っていく後ろ姿を見送ってから、ほふ、と息を吐いた。
「……平気じゃ、無いよ。全然。
一生懸命自分に言い聞かせてないと、自分が自分じゃ無くなりそうな気がしてしょうがないもの。」
七生以外誰もいなくなった温泉で、星空を見上げながらぽつりと溢す言葉。
さっきまでの明るい笑顔は消え、物悲しげな、どこか諦めた様な顔で遠く手も届かない星を見上げた。
■東雲七生 > 七生はシャボン玉じゃないけれど、過去というのは現在を作るうえで無くてはならない土台のような物で。
今生きるもの全てに今まで生きてきた過去があって、それを基に自分の考えが構築されているもの。
だから今の七生は、自分自身危うく感じるほどギリギリの状態なのだろう。
「……それでも、笑って、大丈夫って、言ってないと。
俺自身が、大丈夫って言えないと、立ってすら居られないじゃんか。」
もし自分が自分を支えられなくなれば。
シャボン玉よりも脆く、儚く、『東雲七生』は毀れて消えてしまうだろう。
それは、一度既に経験済みでもあった。もし、あの夜、深雪に一言でも名前を呼ばれなかったら。
──はたして今ここに、自分は居るのか。
「……っ!」
急に悪寒がして、七生は口元までお湯の中に身を沈めた。
辺り一面湯気が覆うほどに、暑いくらいのお湯の中でも、寒気は消えず、七生は自分の身体を抱き締めた。
■東雲七生 > 「……帰ろう。」
ぽつりと、水面を見つめて呟く。
寒気は自分の内側から来ているのは何となく分かったし、きっと一人で居れば居るほどどんどん寒くなっていくのだろう。
このままでは、きっと頭の芯まで冷え切って、身動きが取れなくなる。
「……帰ったら、飯食って、しょーもない話で笑って、寝よう。」
それらは決して、七生一人でする事では無い。二人だ。
誰かが、七生を知っている誰かがそこに居さえすれば、東雲七生は東雲七生で居られるのだ。
自分を知っている誰かが居る、その事に七生は酷く固執する。
それは自分が自分である為に今はどうしても必要なことだから。
そうでないと、自分が自分で無くなってしまいそうだから。
お湯の中で立ち上がると、やや急ぎ足でその場を後にする。
青黒く痣になっていた脇腹は、七生自身の予想よりもずっと早く、薄く小さくなっていた。
ご案内:「露天温泉」から東雲七生さんが去りました。