2016/09/18 のログ
■ヨキ > 《お前に崇められようものなら、それこそ天が落ちてくるのと同義だな》
念話の声に、ふっと吐息が交じる。
覇気こそ乏しいが、まだ理性を保ってはいるらしい。
《ああ。当時を思い出せたなら、いくらか苦労も少なくなるだろうが……。
手掛かりがあまりにも少ないな》
獅南が感嘆の声を漏らした事物を、ヨキ自身では見ることが出来ないようだ。
身体の奥を見ようとして、その場で一周し、ついでに再びはらわたを取り落とし掛けた。《おっと》。
《……面白いもの?
何か見つかったのか、獅南?》
念話に挟まった雑音に、犬の顔にも小さな動揺が過った。
続く言葉を聞きながら、じっと考え込む。
《…………。だが、呪いをどうにかせねば我々はどうともならんのも事実だ。
ヨキの身体の中に何かが埋まっていつのならば、取り除かんことには――》
――異変は、退いた獅南がヨキを見た瞬間に起こった。
《……獅南?獅南?おい?》
不意に、ヨキが相手の名を呼ぶ。ざ、と交じり込むノイズ。
《獅南?どこへ行った?……獅南?》
眼前のヨキが、獅南の顔を見――たように見えて、素知らぬ風に視線が通り過ぎる。
たちまち平静を失って、忙しなく辺りを見渡し始める。
《……獅南!――》
地が轟くような雑音に阻まれて、ヨキの声が少しずつ遠ざかってゆく。
《し――》
■ヨキ >
耳を劈く雑音を最後に、念話が途切れる。
突如としてヨキが大きく身悶え、口端から一際勢いよく焔を吐き零すと同時――
身体の奥に潜んでいた金色の刃が、鞭のように撓って伸びる。
風を切る音と共に、獅南を切り伏せんと振り下ろされた。
■獅南蒼二 > 念話に交じるノイズは,獅南の魔力制御の不安定さによって生じたものだった。
……そのはずだった。
平静を失う貴方とは対照的に,獅南には何が起きているのか,すぐに理解できた。
これは“干渉”だ。
『……ヨキ,安心しろ。
少しだけ眠っていてくれ…ただし,起きたときに傷が2,3個増えていても騒ぐなよ?』
知覚魔術を展開していなければ,その変化に気付くことはできなかっただろう。
といっても,獅南が一歩下がっていたのは,まさに幸運な偶然だった。
獅南の反射神経そのものは,常人のそれと何ら変わらぬものだったから。
「ほぉ……私を殺したいのは,アンタか。」
振り降ろされる刃を受け止めるように翳した右手。
指輪のうち1つが砕け散り,あふれ出た光が防御術式を形作って,物理的な衝撃を受け止める。
「挨拶も無くいきなり剣を抜くとは,失礼極まりない上に,あまりに迂闊だ。
さて,言葉は理解できるな? ……ならば覚えておけ。」
左手の指輪が1つ砕け散り,溢れ出した光はその掌の中で炎へと転じる。
右手の防御術式は長く持たないだろうが,刃を止めるのは僅かな時間で十分だった。
「アンタが始めたことだ,その力で私を殺せるなら,最後まで見届けろ。
それができないのなら……後は私に任せて,さっさと眠れ。」
解き放たれた炎は周囲の魔力を巻き込んで指向性のある爆発を引き起こす。
爆発は貴方の身体を後方へと吹き飛ばし,2人の距離を大きく離すだろう。
僅かも表情を変えず,それこそ侮るように棒立ちで…
…ポケットに手をつっこんだまま,貴方を…いや,貴方の中にいるもう一人の相手を見る。
殺したいなら殺してみろ。そう言わんばかりだった。
■ヨキ > “ヨキ”の声は、もはや聴き取ることが出来なかった。
元通りの荒野を吹き荒ぶ風の中に、獣の荒々しい吐息が繰り返し響き渡るばかりだ。
果たして獅南の言葉がヨキまで届いたかどうかは、判らない。
身を低く屈めて牙の間から涎を吐き零す様は、獣としてさえ常ならざる有様だった。
低く唸りながら、焦点の合わない目がじっと獅南を見ている。
語り掛けられる言葉に対して、獣からの答えはない。
遠雷が轟くように、低く吼える。
後肢が地を蹴る寸前に、獅南の起こした爆発が真正面から獣の全身を打ち据えた。
悲鳴を上げながら地面を転げる身体は、それこそ事故を起こしたスクラップのようにけたたましい。
素早く身を起こし、挑発するように佇む獅南へ間を置かずに飛び掛かる。
爆発が起こした熱と光に、獣は些か冷静さを失っているらしい。
目の前の人間ただ一人を相手にするには、いやに大振りな動作。
まるで“自分よりもずっと巨大な何か”と戦っているかのような。
吼え狂い、大きな口が獅南の脳天目がけて降ってくる。
噛み付く寸前、ヨキが魔術の行使とともに散らしたものと同じ紫電が爆ぜ――
空間に満ちた魔力を介して、一瞬のまぼろしを獅南の脳裏に焼き付ける。
――それは鬱蒼とした森の光景だ。
森が、炎に包まれている。
獅南の起こした爆発とは、似て非なる苛烈さで――山を焼く、炎。
■獅南蒼二 > “ヨキ”の声も“アンタ”と呼んだもう1人の声も,どちらの答えも返らないのは予想通りだった。
元より期待などしていなかったが,話の通じる相手ではないらしい。
そして吹き飛ばした巨体が発する轟音はその膨大な質量を物語る。
一撃を貰えば無事では済まないだろうと,内心に苦笑する。
「どこを見ている,私はここだ……この大馬鹿者。」
…同時に,錯乱しているかのような巨体の動きに,獅南は違和感を覚えた。
だが,それが何を示しているのか,この僅かな時間ではまだ,理解するには至らなかった。
巨体が牙を剥く,吠え狂い,飛び掛かってくる。それでも獅南は仰け反りさえしない。
その口の中に,貴方が弱点と語った雷撃を加えてやろうと指輪を握りしめた,まさにその瞬間……
……獅南の脳裏には確かに,自らの経験に無い,未知の光景が焼き付けられた。
それはまるで走馬燈のように,しかし確かな現実感を伴って…全てを焼き尽くす炎が,山を,森を焼く。
幻の中で獅南は,周囲を見回した。
それが“ヨキ”が見せた幻だとしても“アンタ”が見せた幻だとしても,そこに答えがあると,そう直感が告げていた。
■ヨキ > 真上から振り被る獣の牙が――突如として、スローモーションのように動きを鈍くする。
“獣に噛み付かれそうになる”その一瞬が、永遠のように引き延ばされる。
――燃え盛る炎が森を焼く音の中で、さざ波のように雑音が沸き立つ。
それは人間の声だ。
カミとして、邪霊として、永きに渡り人間の言葉を持たずして人の声を聞き続けた獣と、
人びとを救うために人の声を聞き続けた男と。
それらの記憶が結び付き、ヨキの脳裏に刻み込まれた――無数の“言葉”。
《失敗した》《あんな奴に》《だから信用してはならないと》《出来損ない》《気持ち悪い》《だから異能者は》《失敗だよ》
《全然ダメだね》《あんたなんか頼るんじゃなかった》《才能ないね》《お前にはこれが似合いだよ》
《本当に続けていく気あるのかな》《そんなの出来っこないじゃないか》《無理だよ》《失敗するに決まってる》
《自分で出来てないこと判ってる?》
――《この無能!》
数え切れぬほどの怨嗟。侮辱。罵詈雑言。
言葉として聞き取れない音までもが、鋭い棘を孕んだ怒声となって鼓膜を刺す。
嵐のような轟音の中に――
ひとひらの、微かな声。
《わたしの獣よ》
《赦しておくれ》
《わたしには》
《叶えてやれなかった……》
奥底にぽつりと咲くような声が、響いた瞬間。
ひどくゆっくりと流れていたはずの時間が、現実に立ち戻る。
獣の傷口という傷口から、無数の金色の刃が放射状に素早く延びる。
それらはひとつひとつ刀に似て、鍬に似て、斧の切っ先に似ていた。
ひとりと一頭の間でのみ成されるはずだった、浄化のための儀式。
その儀式は、私怨に燃える人間によって阻まれ、穢されていたのだ。
永劫清められることのない、古びた金属の刃。
もはや誰の介入を望まない牙と刃とが、《最後の邪魔者》の身体を貫かんとする。
■獅南蒼二 > 眼前に迫る獣の唸り声も,炎がすべてを焼き尽くす音も,
鼓膜を刺す怒声によって全てがかき消される。
空気を揺らすことなく,念話の術式を介さず,言葉は獅南の脳裏に濁流のように流れ込む。
「…………………。」
耳を塞ぎたくなるような言葉の海。言語として認識できない罵声。
信頼すべき友人たるヨキを形作る2つの存在が聞き続けた“言葉”たち。
獅南は…あまりにも自然に,肩を揺らして…笑っていた。
脳裏に蘇るのは,かつて,才能に恵まれなかった己に向けられた言葉。
それは己が“凡人”であるからこそ向けられた言葉だと思っていた。
「無能は承知の上,誰でも始めは無能さ……
……だが,だからこそ,努力と研鑽を積み重ねるのだろう?」
獅南が誰にともなく呟くのと,その脳裏に“微かな言葉”が響いたのは,ほぼ同時。
静かに瞳を閉じて…小さく頷く。
現実にどれほどの時間が経過しているのか主観的には分からない。
だが,巨体を見上げる獅南の表情は,その瞳の奥に燃える光は,明らかに変化していた。
無数の穢れた刃が向けられようと,牙が向けられようと,
獅南はまるで,その全てを受け入れるかのように,瞳を閉じたまま…自然に,笑っていた。
「なるほど……私を殺したい理由は,分かった。
アンタらの邪魔をするのは私だけだ…私が消えれば,アンタらの望みは叶う。
……私がそう“信じている”のだから,間違いない。」
私怨に燃える人間によって穢された儀式と,穢れた刃。
《最後の邪魔者》の命と,流れる血の代償によって,それを浄化する。
何の理屈も,何の論理も,何の計算も,そこには存在しなかった。
穢れた刃が,獅南の胴を貫く。
紅く赤く,白衣が染まって血が刃を滴り……獅南はまた,笑った。
「…………やれば,できるじゃないか。」
胴に突き刺さった刃を握って…一歩,貴方の方へ歩む。
「………。」
何かを言おうと口が動いたが,言葉にならず。
血だまりの中で,獅南はどさりと,仰向けに倒れた。
■ヨキ > 噛み合わされた牙は放たれた刃の勢いに圧され、獅南の衣服さえ掠めることが叶わなかった。
“ヨキ”を形作った男が遺した「呪い」は――どうやら、あくまでも彼に獅南を食わせぬ心算らしい。
無慈悲な刃の連なりが獅南の身体を貫くのを、体勢を崩した獣の目が捉えた。
風が唸る。その風を覆うほど荒れ狂う、獣の遠吠え。
それは――慟哭だ。
仰向けに倒れた獅南の身体から、興味を失くしたかのように呆気なく刃が引き抜かれる。
獣の身体から鬣のように伸びる無数の刃の穢れは、――払われていなかった。
獅南の脳裏に蘇る、ノイズの嵐。合間で微かに響き渡る、弱々しい声。
大気中の魔力と交じり合い、念話の余韻が入り乱れているらしい。
《……し……し、なみ》
《獅南――》《ちがう》
《“これ”を振るったのは》
……「頭の奥が朦朧とする」「眠気か」「あるいは酔い痴れたかのように」。
ヨキ自身が語った言葉の通りに、獣は覚束ない足取りで獅南の下へ歩み寄る。
《俺じゃな――》
歩み寄ろうとして――
――自らの身体から生えた刃に首筋を貫かれて、獣の巨大な身体は地面に縫い止められてしまう。
地響き。悲鳴など、上げる間もなかった。
《獅南……》
《だめだ》《……死ぬな……》
《まだだ》
《このままでは》《俺は……》
《こいつに――『妙虔』に》
《囚われて……》
“妙虔”。今や影も形もない、呪いの主の名。
声は返らず、気配さえないということは――既に呪いそのものとなって、ヨキの身体に深く根付いているらしい。
力なく地に伏した獣の身体から、古びた血が流れ出し、獅南の鮮血と交じり合う。
獅南を食べまいとした飢餓と、首を貫いた傷とに、刃から逃れる力もなかった。
獣の口がぱくぱくと動く。人間の言葉など、発せられるはずもないというのに。
それは――ごく単純な、治癒魔術の詠唱だった。
獣の毛皮の表面を、発動を抑制された魔力が小さな紫電となって飛び散る。
それきりだった。獅南はこんなにも、自分のために注力してくれたというのに――
自分には、獅南の傷を塞いでやることすら出来ないのだ。
獣の身体を貫いた刃が、一筋の金属に立ち戻り、ゆっくりと枝分かれしてゆく。
それは網のように、膜のように――獣の身体の表面を、覆い始める。
《……………………、》
獣を捕らえる呪いの金気の、その根元。
倒れ伏した獣の背から、血に塗れながら墓標のごとく突き立った金色……。
それは――中途から折れた、錫杖の先端だった。
■獅南蒼二 > 刃に貫かれ,仰向けに倒れ伏した獅南は,なおも笑っていた。
薄れゆく意識の中,獣の声が,耳に届く。
ヨキの悲痛な叫びが,その耳にも,そして脳裏にも響き渡った。
『……………………。』
刃が引き抜かれ,鮮血に染まったその身体の,命の炎は消え失せようとしていた。
ヨキの言葉が,流れ込んでくる。
治療魔術を詠唱したことになど気付けるはずもないのに,獅南は…最後の力を振り絞り,僅かに指先を動かして……
『…………黙って……待ってろ。』
……貴方にそうとだけ告げた。
憎まれ口ばかり叩いていた口は,二度とその言葉を発することはなく,
いつも疲れ果てていながらにして,澄んだ瞳からは光が失われ,
体中に血液を送り出していた心臓は動くことをやめ,獅南蒼二だったものは,無価値な血まみれの死体となる。
……などという結末を,この男が用意するはずがない。
心臓の停止を発動のキーとして,内ポケットに忍ばせた魔石が,膨大なその魔力を開放する。
そしてその発動に呼応するようにして,左右の指全てに嵌められた指輪がすべて砕け散り,周囲一帯を吹き飛ばさんばかりの魔力が開放される。
獅南は“誰も近寄らない場所”を指定した。
獅南は“必要以上の指輪”を嵌めた上に“魔力を温存”していた。
全ては,この術式を完成させるために。
自分を殺したがっている“男”にその血と命とを与え,そして欺くために。
膨大な魔力は直視できぬほどの光を放ち,術式を構成していく。
それは図書館の奥,禁書庫で埃を被っていた魔術書に記された,あまりにも単純な魔術。
“時間操作”
光に包まれた獅南の時間を,たった30秒,過去へと戻す。
それだけのために膨大な魔力を消費する,あまりにも非効率で,あまりにも非生産的で,あまりにも実用性のない,魔術。
記憶だけは保存できるよう,手を加えた…だがそれ以外は,誰も見向きもしなかった魔術書に記されていた,誰もが捨て去り,忘れ去られた魔術。
───光が収まる。
だが,今この瞬間に限って言えば,それは紛れもなく彼が追い求めた“最高の魔術”であった。
「………待たせたな,良い子にしていたか?」
……真っ白な白衣を身に纏った獅南が,そこに立っていた。
貴方の身体を貫いた刃は,今や貴方を包み込み,穢れた金属に取り込まんとしている。
だがその根元,呪いの金気の根源たる“起点”は《最後の邪魔者》が消えた今,あまりにも無防備に,そこに在った。
獅南には,魔力など,もはや不要だった。
複雑な術式も,魔術の知識も,必要としなかった。
倒れた貴方に駆け寄ってその背によじ登り……
「……私の友人を,返してもらおうか。」
……力任せに,引き抜くだけだ。
■ヨキ > 獣の喘鳴だけが荒野にか細く響き渡る。
あまりに重い鉄塊の巨体は、朽ち果てた筋肉のみでは動かすことも叶わない。
獅南が残した最後の一言に――返事はない。
獣の体表を侵す金属が、その毛並みを、柔皮を、肉を蝕んでゆく……。
(それは)
(誰にも聞かれることのない呟き)
(「あわれな獣」)
(「果てることも叶わぬおまえよ」)
(「ともに昏きに沈みゆく命ならば」)
(「いっそのこと――」)
そして、
■ヨキ > ――今にも閉ざされようとしていた獣の瞳が、光を視た。
(……ああ)
獣の口が、薄く笑ったように見えた。
“何事もなかったかのように”そこに立つ獅南を、辛うじて目線だけで見遣る。
《…………、》
《ばァか……》
今にも消え入りそうな声。
この光景にあまりにも不似合いで軽い冗句は、研究室でどのように吐かれたものだったか。
――血の汚れ一つない白衣が、可笑しいほど浮いていて、眩しかった。
ただ魔術学のために邁進し、ここまで辿り着いてくれた。
《……最高だよ、お前》
笑うように息を吐くごと、食い込んだ金属の根が肌に深く食い込む。
だが――
もう、痛くも痒くもなかった。
自分の背へ上った獅南の手が、血に汚れた錫杖を引き抜く。
潰えた儀式が形を変えた呪術が、今にも完遂されようとしていたその瞬間。
ばきばきばき、と瓦礫の崩れるような音を立てて、獣の肉という肉に食い込んでいた金属が引き剥がされてゆく。
――ともすれば、もうとっくに彼らは疲れ果てていたのかも知れない。
妙虔を憎み続けたヨキと。
手に入ることの叶わないヨキを望み続けた妙虔と――
呪いの金属は、もはや獅南を傷付けようともしない。
ただ縋るように獣の肉に噛み付き、抗うばかりだった。
《獅南、》
あの日の眠りに就く前のヨキのような、苦痛から逃れ得たものの柔らかな声。
《――消し飛ばしてやってくれ》
■獅南蒼二 > ヨキの身体を包み込まんとする金気の根源を引き抜くことは,思いの他に,容易かった。
まるで,朽ち果てた古木のように,張り巡らされた根さえも腐り落ちて,弱り果てていた。
「……言われなくとも,そうしよう。」
錫杖を放り投げ,右手を翳す。
身体に残された僅かな魔力でも発動可能な……獅南が金属を破壊するためだけに編み出した術式。
既に劣化の始まっていた錫杖は,みるみるうちに腐食が進み…
「さっきの言葉を覚えているだろう?
私を殺せなかったのだから,私の勝ちだ。」
…獅南が翳した手をぐっと握ると同時に,粉々に砕け散った。
粉々になって地面に落ちた錫杖は,風に吹かれて吹き飛ばされ…二度と,呪いの形を成すことはないだろう。
「……ゆっくりと眠れ。」
言い終わらぬうちに,獅南もまた,ふらり,とよろめいて…
…どさり,と貴方のすぐ横に仰向けに倒れた。
■ヨキ > 錫杖が、跡形もなく砕け散る。
金気を払われて――
――倒れ伏した獅南の横に在るのは、元通りの人の姿をしたヨキだった。
「…………、」
土埃にまみれた身体を、ぴくりと動かす。
倒れた獅南へ向かって、弱々しく伸べられる手。
腕を掴まれた感触に、違和感を察するのは容易い。
ヨキが獅南の腕を掴んだその手には、
「……え?」
指が、五本あった。
黒いマニキュアを施した四本の指の他に――薬指が、増えている。
頭を起こす。
顔の両側に垂れ落ちるはずの耳がない。
眩しげに目を閉じる。
夜だというのに、何しろ視界が眩しく見えたのだ。
「あ……」
獅南の顔を見遣って、瞬く。
白茶けた土の上。土気色の獅南の肌。歳相応の黒い髪。白衣の、服の、靴の色。
「――色が」
“視える”。
どこか夢うつつのように見開いたヨキの目は、青かった。
金砂にも似た煌めきを虹彩に散りばめた、碧眼だ。
「……獅南……」
震わせた唇に、頬に、血の気の通った弾力が見て取れた。
■獅南蒼二 > 獣に転じる時も一瞬なら,戻るときも一瞬か。
まだ,貴方の身体に起きた変化に気付いていない獅南は苦笑した。
そして,差し伸べられた手を,獅南はごく,自然に取った。
…そして2人は同時に,不自然にマニキュアの塗られていない薬指を見る。
「……ん?」
身体を起こし……貴方の瞳を,その碧眼を,見た。
そしてすぐに,貴方の身体に起きた変化を,察する。
貴方が……そう,この世界を,今初めて,自分と同じ目で見ている。
「……それは,私の魔術ではないよ。」
……それを見てやっと,張り詰めていた緊張感から解放された。
安堵のため息を吐いて,獅南は…貴方の瞳を,まっすぐに見る。
「あの男の置き土産かな?」
今や,おそらく自分よりも血色の良いだろう貴方に,獅南は笑いかけた。
■ヨキ > 獅南と向かい合う。
暫しぽかんと開いた口が、いかにも間抜けだった。
「…………………………、」
まるで初めて目にするような、相手の顔。
それでいて、聞き慣れた穏やかな声。
そこでヨキは、とうとう真実に辿り着く。
記憶の片隅に残された最後の音が――人の言葉と、結び付く。
(「あわれな獣
果てることも叶わぬおまえよ
ともに昏きに沈みゆく命ならば
いっそのこと――」)
(「――共に、道を」)
(「くれぐれも、」)
(「恨んでくれるなよ」)
(「わたしとお前の、命とその器とが」)
(「諸共歪むことのないように……」)
“置き土産”。
獅南の笑顔と言葉に、ヨキはかつて経験したことのない感覚に襲われた。
鼻の奥が疼く。目の奥が熱を孕む。
喉奥から、これまで出したことのないような声が独りでに溢れて、
「…………ッふ、……」
不細工に歪んだ、声と顔だった。
碧眼から目一杯の涙が溢れて、地面にばたばたと落ちる。
地面を這いずって獅南の身体にしがみ付き――声を上げて、泣いた。
■獅南蒼二 > 魔力も使い果たし,知覚術式も無い獅南には,
もはや貴方の思考を読み取ることなどできはしない。
「…………………。」
だが,貴方がどのような真実にたどり着いたにせよ。
それが喜ばしいものだということは,表情を見ただけで分かる。
……貴方の瞳が潤んでいく瞬間を,涙が零れ落ちる瞬間を,
獅南は柔らかく笑んだまま,何も言わずに見守った。
しがみ付いて泣く貴方を,今日だけは文句の1つも言わずに受け止めた。
ぽん,と背に回した手で貴方を撫で……静かに,目を閉じる。
■ヨキ > 説明しようとして、意味のある言葉を話そうとして、いずれも叶わなかった。
見っともない顔で、ひたすらしゃくり上げる。
今まで人が泣く姿を、数えきれないほど目にしてきたというのに――
こんなにも、泣き止むのが難しいことだとは。
獅南が目を閉じるのも構わず上げ続ける泣き声は、……やがて悲鳴に変わる。
「…………ッてえーーーーーッ!!」
踵のない獣人の足に合わせてベルトを締めた、ヒールの高いサンダル。
――人の丸い踵をした足がぎゅうぎゅうに締め付けられて、半ば鬱血していた。
もたもたと身悶えながら履物と格闘する姿は、間抜けで、愚かで、見っともなくて。
それでもただ、己が信ずる美のために。
美しいと信じたもののために。
漸う裸足になって、眠る獅南の隣で仰向けに寝転がる。
空が白む。
夜が明ける。
――永い永い歳月の果てに、ヨキは初めて、本当の夜明けの空を見た。
■獅南蒼二 > ひたすら泣き続けるヨキと,心地よい疲労の中でまどろむ獅南。
人知れず身を寄せ合う二人を,やがて美しい朝日が……
(…………ッてえーーーーーッ!!)
……もとい,見事に目が覚めた。
愚かで,間抜けで,けれども,信頼すべき友であり,決して重ならぬ道をともに歩む者。
いい大人が2人,荒野に寝転がって夜明けの空を見上げている。
──そう,夜が明けたのだ。 新しい一日が,始まろうとしている。
ご案内:「荒野の奥」からヨキさんが去りました。
ご案内:「荒野の奥」から獅南蒼二さんが去りました。