2022/05/20 のログ
ご案内:「訓練施設 水練場」に酒匂みどりさんが現れました。
■酒匂みどり > 夕刻の水練場。
夏が近づき日も長くなったが、それでもこの時間になれば天窓から覗く空には茜が差している。
先刻までは水泳部の面々で賑わっていた場内も今は人影なく、耳が痛くなるほどの静寂に包まれている。
そんなうら寂しい空間に時折、ちゃぷり、ちゃぷりとささやかな水音が鳴り、ほのかに残響する。
楕円形に掘られた『流れるプール』の水面にひとり、妙齢の女性が浮かんでいる。
色気のない競泳用水着に身をつつみ、ぼーっと天井を見上げて。
手も足も動かさずに水面を漂う様はどこかラッコめいてもいようか。
しかし、よく見れば足先だけを緩やかに上下させ、それで流れるプールの流速に逆らうだけの推進を得ている。
現在このプールは一般的な遊泳施設の流れるプールの流速、秒速50cm程度に設定されている。
足先だけの動きでこの流速に逆らい泳ぐのは結構困難なことだ。常人には。
「………はぁ……。私の教え方、あまり良くないんでしょうかねぇ……?」
流れる水の小波に消え入りそうな小声で、女は、酒匂みどりはつぶやく。
水泳部のコーチの1人として今年度より着任したみどり、度々水泳部の面倒を見ているのだが。
今日はこの流れるプールにて、今の流速の5倍の速度に設定し、その中で泳ぎ続けるという課題を課したのだ。
激流とまでは行かないが、一般的な河川の中~下流域での流速にも等しい速度。
油断すれば水泳の覚えのある者でも溺れかねない流れ方だ。
当然、多くの水泳部員は挑む前から臆してしまい、呆れて帰る者もいた。
果敢に挑んだ者もほとんどは数秒とて泳ぎ続けられず、溺れかける者すら現れる始末。
もちろん危険にさらされた部員はみどりが救ったが、結局この日満足に泳げた者はおらず。
こうして、後悔から呆然とする体育教師がひとり、静謐のなかに残される結果となった。
■酒匂みどり > 地球は水の星である。そこに息づく生命体の中で、水と無縁で居られる者はごく僅かだろう。
ゆえに、泳ぎは生命すべてにとっての必須技能。
ゆえに、誰でも泳ごうとすれば泳げるはずなのだ。そして泳ぎは、ただ泳ぐことでよってのみ上達する。
――そう考えていた。
「……とはいえ段階を追う必要はある……か。言われちゃいましたねぇ……」
ちゃぷ、ちゃぷ。かすかな水音を断続的に奏でながら、流れるプールの水面で見かけ上静止しているように見えるみどり。
ちらりと横を見る。プールの流速を変えるための装置が壁に備え付けられている。
恨めしげにそれを睨みつつ、受け持った水泳部の中でもっとも優秀とされる生徒に去り際に言われた言葉を反芻する。
いや、当然と言えば当然のことだ。みどりも冷静な思考回路が働いていれば、常識的な課題を課していただろう。
しかし、さあ生徒に指導するぞ!と意気込んでしまうとどうも暴走してしまうフシがあるようで。
つい自分の身体能力を基準にした厳し目の課題をセットしてしまうのである。
すでに生徒たちの間で『あの新しい体育教師は鬼だ』などと噂されているのも耳に入っている。
……はぁ、とため息をついて。
「……次は気をつけなくちゃね……」
赴任して何度そう自省したかもわからない『次は』という言葉を呟きつつ、また天井を見上げる。
プールは生徒・教師に対してなら常に開放されている。もちろん遊び目的でなく、トレーニング目的に限られるが。
こんな情けないラッコ姿を誰に見られるかもわからない状況だが、もうしばらくはこうして漂っていたい気分。
……教師が訓練施設を休憩目的に使っているわけで、職場倫理に厳しい者に見咎められたら警告沙汰かもしれない。
■酒匂みどり > やがて、天窓から見える空が赤から黒に変わり、星のまたたき始める頃。
さすがのみどりも足先からくるぶしにかけて無視できない疲労を感じてきた。
もっとも水泳部の指導時には、溺れそうになった生徒を救いつつ自身は5ノットの流速の中でひたすら泳いでいたのだ。
体育指導の肝は実践することと、実践をよく観察すること。そんなスポ根体質が心身に根付いているみどり。
しかし、さすがに河童を自称するみどりでも数時間にわたり泳ぎ続ければ『少しは』疲労を覚える。
だがそれは心地よい疲れだ。今日もよく眠れそうだ。
「…………………すぅ……っ」
水面にただ浮かんでいるだけだったみどりが突如、音を立てて大きく息を吸い込む。
水着の布地の内側で、形の良い胸がさらにむくっと膨れる。
河童のみどりは水中でも呼吸できる。この吸気は酸素を求めるものではない、体に気合を入れるためのもの。
――そして、背泳ぎ状態のままその身を水面の下に沈める。重石でもついたかのような沈下速度。
1.4m下の底面ぎりぎりまで下がると、底をすべるように加速を始めた。
足先だけの推進から、体全体をしなやかにくねらせるバタフライめいた泳法で速度を得る。
視線は水面を見上げたまま。前方の確認はできないが、このプールの形状はもはや体が覚えている。
1周50mの楕円形の流水プールを、流れに逆らいながらぎゅんぎゅんと泳ぐ。
どんどんと加速しつつ、2周、3周。しまいには1周10秒もかからないほどの速度に達して。
――そして突如、離陸する飛行機のごとく、女体が水底から跳ね上がり。
ざぱああああっ……! 静寂を割いて水柱が立ち、怒涛が響く。
「………っと! ふぅ……」
背泳ぎ姿勢のままトビウオめいて水面から『飛び出した』みどりは、そのままプールサイドへと着地する。
最後の最後に全力の水泳。
全身の筋肉をフルに使って水をかき分けたため、しびれるような疲労が総身に広がり、脚がガクつく。
水の浮力からも解放されたことから、まるで地球の重力がいきなり2倍に増したような錯覚すら覚える。
……この疲労感。この錯覚。これこそが水泳の醍醐味と言ってもいいかもしれない。
人が水から離れて生きていけないように、河童も陸から離れて生きることはできない。
人間社会に交じることを選んだ河童であればなおさら。いつまでもプールでぼんやりしてはいられない。
「……帰り、ましょう………ふ、ふふふ……」
筋肉に溜まった乳酸が全神経を苛む。1歩足を進めるだけでくずおれそうになるが、顔には満面の笑みが浮かぶ。
寮に帰れば冷蔵庫でキンキンに冷えた焼酎とキュウリが待っている。
今日もまた失敗しちゃったけど、旨いモノと強い酒でリフレッシュして、ぐっすり寝て、明日また頑張ろう。
河童は水練場をあとにする。
ご案内:「訓練施設 水練場」から酒匂みどりさんが去りました。