2021/12/01 のログ
藤白 真夜 >  
「っ……!」

 ああ、私が馬鹿でした。
 彼が風紀委員なのは解っていたはず。ならば、どんな負傷が起きてもおかしくはない。
 先だっての大きな争いは収まったとはいえ、この島に治安の悪い場所はいくつもあるのだと、体では知らずとも知識で知っていたのに。
 
 明らかに重たそうに脚を動かす姿に、小走りで駆け寄る。
 許されるなら肩を貸そうとして連れ添うでしょう。
 

「菖蒲さん……、あの、歩いても、大丈夫なのですか……?」

 病院は、“匂い”が多い。それも、私が病院がキライな理由のひとつだったけれど、今回は運がよかった、はず。
 周りに溢れる血や傷や病の匂いは、私には漫然としてよくわからない。
 けど、近づいた彼の匂いはハッキリとわかる。
 
 私は――――

 一度だけ、恥じるように唇を噛んで。

「……菖蒲さん。
 血の、匂いがします。
 まだ、ゆっくり横になられたほうが、いいのではありませんか……?」 

 どうしても、心配するように、彼の顔を覗き込んでしまう。
 ……私に、そんな権利は無いというのに。

芥子風 菖蒲 >  
少年は抵抗する事は無い。
その小さな体は簡単に寄り添う事が出来る。
普通の人間と変わらない血の通う暖かな体温。
ただ、何時もより血の匂いが強いだけ。少年の方は、青空の目をぱちくりさせて彼女を見やった。

「リハビリ?動かないと鈍りそうだし、オレ治りは早いから大丈夫。
 多分異能の影響かなぁ……ていうか、どうしたの?また寒い?」

そんな彼女の心配を尻目に、少年は実に何時も通りだった。
肩を貸してくれたのも、寄り添うのも保健室の一件の延長線だと思う程度には。
自らの傷など、余りにも興味なさそうだ。

「んー、結構斬られたからかな。なんか、結構強い奴だった。
 悪い奴……かは、わかんない。けど、危ない奴だったからさ」

「そう言うのを止めるのが、オレの仕事」

もう少し深く斬られていたら、内臓がまろび出ていただろう。
あの閃光の様な剣戟には未だついていける自信が無い。
だが、勝てる勝てないの問題では無く、この常世島の脅威に、違反者(はんざいしゃ)に立ち向かうのが風紀委員だ。
困っている誰かの為なら、少年は何の躊躇いもなく傷を負う。
そう言う性分だ。思い出したかのように斬られた体を、腹をなぞって小首を傾けた。

「そう言えば、オレも真夜先輩探してたんだ。また会えてよかった。
 今日はどうしたの?風邪?」

藤白 真夜 >   
 青年の体を、しっかりと脇から支える。
 温かいその手触りを、今は無視して。


「――。」

 言葉が出なかった。 

 斬られた。
 それの意味するところが、どの程度なのかはわからない。
 でも、体に巻かれた包帯の数々に、私に“解る”血の匂いに、どう見ても軽症じゃ済んだはずがない。

 どこか、歪なモノを感じた。
 
 それは、私のモノに似て、でも違った。
 私は、元から大事にするほどカラダに価値が無い。
 この人は、自分のカラダよりももっと価値のあるものが、見えている。

「それは、……」

 このひとは、きっとそれを当たり前と当然のように受け入れている。
 私にはそれが、……とても、眩しい。
 だから、問いかけるのには、自らの昏い恥じらいを払う勇気が必要だった。

「それは、仕事だから……やっているのですか?
 それは、……誰かに言われたから、やっているのですか?」

 おそるおそる。小さな声で、ひとつひとつ。問う。
 それは在る種の、確認だった。……とても、不躾な。
 澄み渡る青空を、ペンキで塗ったのかと尋ねるような。


「……私は、大丈夫です」

 何度も言った言葉。どこか、困ったような顔で笑う。……違いを、仕方のないものだと受け入れるように。

「最近、すぐ寝てしまうのでお医者さんにかかったんですけど、……なんにもなかったみたいです。
 菖蒲さんのほうが、……きっと、大変です……。
 あっ、貧血もちゃんと収まりましたからねっ」

 つい、心配するように翳る表情を、誤魔化すように笑顔を浮かべる。
 ……このひとには十二分に心配してもらったのだから。

芥子風 菖蒲 >  
何だか弱々しい問い掛けだった。
何だか遠慮気味と言うか、少年には彼女の気持ちが今一理解出来なかった。

「んー……オレ、知り合いに言われたんだよね。
 『あんまり自分でモノを考えてなくて、妥協的』みたいな感じに」

常世渋谷で言われたことだ。
今でもちゃんと覚えている。

「確かにオレ、出来ない事ばかりだから。出来る事は人に任せっぱなし。
 なんか、事務仕事とかよくわかんないし、考える事も苦手だからさ」

少しはその辺りは努力して、自分なりに考えているつもりだ。
結局、根本的なスタンスが変化した訳では無い。
んー、と少し悩んで、また口を開いた。

「けど、戦う事は"自分で決めた"」

そう言われても、そう思われてもハッキリしてる事がある。

「オレの異能は、戦う事しか使い道がないから。オレは遠慮なく戦える。
 けど、普通の人はそうじゃないんだって。だから、出来ない代わりにオレがやる」

「皆がやれない事を、オレが代わりにやるって決めた。
 星も舞子も薫もエルザも、真夜先輩も。皆"暖かいんだ"」

自分に無いものをくれる。
時には厳しい言葉をもらう時はあるけど、この人の繋がり。
"縁"がくれる暖かさが一番好きだった。それを直に感じなくていい。
ただ、分けてくれるだけでいい。だから、と少年の口角は緩む。

「オレはそれを護りたい。それだけは、オレが決めた事。
 皆のおかげでオレは体を張れる。誰かの言われたとか、仕事とかそういうんじゃない」

「オレが決めた事」

その"輪"の外側で、常に前に立つ。
それだけはハッキリとしていた。
満足そうに言い終えると、ハッ、とする。

「……あれ、オレ思ったより考えれてる?」

てっきり、あの少女の言う通りだと思っていた。
自分でもビックリしたらしい。そして、言い返せなかったことに腹が立った。
むぅ、と唇を尖らせるのはほんの少し。とりあえず、薫には何時か渋谷の借りを返してしまおう。
今は、それより。

「オレは別にいいんだけど……」

ずぃ、と顔を覗き込んだ。

芥子風 菖蒲 >  
 
        「──────何だか、大丈夫そうじゃない」
 
 

芥子風 菖蒲 >  
ただ一言、心配そうに言った。
何がどう、なんて具体的な事は言えない。
言うなれば、"勘"だ。きっと、あの夜の胸騒ぎのせいなのかもしれない。

「オレ、真夜先輩の事この前考えてた。
 何が……ってわけじゃないけど、なんだか胸騒ぎがしたんだ」

「先輩がいなくなるような、やな感じ。本当に大丈夫なの?」

じぃ。少年は矢継ぎ早に訪ねていく。

藤白 真夜 >  
「――……。」

 今度こそ。本当の意味で、言葉は途絶えた。
 菖蒲さんは、あまり話すのが上手ではないのかも、そう……思っていた。
 けれど、違う。
 菖蒲さんは、ちょっと、……表情に出づらいだけ。
 その言葉と意志は、晴れ渡る青空のようにソラを駆けて。

 私はそれを……眩しそうに目を細めて、見つめていた。口元に微笑みを、気づかずに浮かべたまま。

「……ごめんなさい。
 菖蒲さんが、仕事だから、とか。
 誰かに命令されたから、とか。
 そういう理由で、こんな目にあっていたら、と考えてしまったんです」

 自らの痛みをなんでもないと切り捨てる菖蒲さんは、どこか危うく見えてしまった。
 でもそれは、とんでもない勘違いだ。

 ……私は、自分が恥ずかしくなった。こんな、小さな言葉じゃつりあわないくらいに。

「……私、未だに菖蒲さんの、あの刀を思い出します。
 ああ、また納得してしまいました」

 昏く沈む心とは裏腹に、あなたを見つめる顔は緩やかにほころんだ。

「今の言葉は、あの時の一太刀のように……真っ直ぐでした」

 ――綺麗だった、とあの時を思い返すように。

藤白 真夜 >  
 だから。
 あの時を想起していた私は、やっぱりちょっと近いその距離に、驚けなかった。
 その、ただ真摯な心配に。

「……私。
 痛く、ないんです」

 ぽつりと。
 あなたの傷痕を見つめながら。それだけで、体が求めているのがわかる。 
 ――誰がやったの?どうやって?どれだけ血が出たの?私が目をつけたのに――
 昏い飢えを押しやって、……顔は、冷たく……けれど食い入るように。あなたを見つめた。

「熱すぎるのはちょっと苦手ですけど、冬の寒いのも平気。
 風邪なんて一度も引かなくなりましたから。

 ……わたし。
 “そんな傷”も、へっちゃらです。
 だから、あなたに心配される必要は、無いんですよ」

 あえて、言葉を選ぶ。できるだけ、冷たく聞こえるように。
 彼の決意と意志を、損ねるように。

「……だから、私が居なくなるとしたら」

 ……でも。
 少しだけ。 
 ……羨ましかった。恥ずかしかった。
 “このひとたち”が心で暖かさを感じるモノを。

「長いお仕事が終わった時か――、」

 “わたし”は、暖かい飲み物だと感じているのだから。

「あなたみたいな正しいひとに、わるいものが退治されるとき」

 弱々しく、力なく微笑んだ。
 なのに。
 瞳は潤むように、輝きと無を孕んで瞬いた。

芥子風 菖蒲 >  
「大丈夫。つい最近も、似たような事言われたし」

何より気にするような事とは思ってない。
素気ないかもしれないけど、傷ついても居ない。
誰にどう思われても、それだけは変わらない"芯"だから。
何を言われたってへっちゃらなだけだ。

「……よくわかんないけど、それって褒めてる……って事?」

ぱちくり。両目を瞬かせた。
彼女を助けた時に振るった刀。何時もと変わらない。
皆の邪魔をする奴等を斬っただけ。無我夢中だったし、一々何か考えていた訳じゃない。
ただ、彼女を護りたかっただけ。彼女が評価する言葉には、今一ピンとこない。

「……真夜先輩?」

けど、少年は機敏には敏い。
交差する互いの視線。血の様に赤い眼差しは、あの時とは違った色だ。
虚の血に輝きと無、少年を見る目は……狙われているように、感じた。

「…………」

いたくない。へっちゃらだって。しんぱいないよって。
彼女は訴えるようにそう言う。

「そんなことない」

だから、少年は思ったことを言った。

「そんな風には見えない。体とかじゃなくて、胸の奥が痛くなるとかあるよ」

それが心、とは形容出来なかった。
言葉では無く、感覚でそれを理解している。
色んな人が、少年の周りの人間が教えてくれたことだ。
彼女にとって、自分は何に見えているのだろう。
よもや、"家畜"か、或いは"獲物"にしか見えないなんて思わない。
だが、少年にとっては、"それでもいい"のかもしれない。

「オレはイヤだな。真夜先輩がいなくなるのも、痛くなるのも」

何処までも素直で、彼女の事を気遣ったつもりで。
どんな彼女でも、ありのままに受け止める心算だ。
もう、彼女だって護りたいものの一人なんだ。
だから、どんなことだって受け止めてるつもりだ。

だから、だから、だから─────────。

「……教えてよ、先輩」

芥子風 菖蒲 >  
 
          「オレは何をすればいい?」
 
 

藤白 真夜 >  
 ……眩むように、申し訳なさそうに伏せられた瞼が。
 狼狽して見開かれた。

「……ど、どうして、ですか。
 私に、そんな価値はありません……!
 あなたが負った傷も、私には何もわからない!
 あなたのような人が、死も恐れず――いえ、それすら呑み下して誰かのために闘う中、私はのうのうと――。……っ。
 私はあなたに心配される価値も、あなたを心配する権利も無いんです!
 だって、わからないんだからっ!
 傷も、痛みも、苦しみも……死ですら、そんなの、ただ異能が直すだけ!痛みなんてとうの昔に薄れきって――、」

 ちくり。

 胸が痛んだ。

 こんなに人に向かって拒絶するのは、いつぶりだろう。
 こんなに真っ直ぐ心配されては、私の価値が過つ。
 こんなになんてことのない傷を心配しては、彼の傷の意味を損なう。

 私なりに頑張った拒絶は受け入れることなく。
 彼を騙して、否定して、そのほうがよほど胸が“痛”かった。

藤白 真夜 >  
(今なら出来る。大丈夫。菖蒲クン、こんな訊き方してくるんだからどうせ聞いてくれるわ。風紀ってそーゆートコでしょ?上下の命令系統とか厳しそうだし。さっきのは確かにスゴかったけど、指示を待つのに慣れてるタイプに見えるわ。そもそも、あの傷を許していいの?あんなに暖かさだけでもわけてくれたコを、あんなにズタズタにされて?真夜も意識してたでしょ?あんなにくっついて寝てたんだもん。いつでも血を採れたもんね。私たちが目をつけた菖蒲クンの、温かい血。どーせどばどば出たんでしょ?お腹すっぱりイカれてるもん。私より先に、だよ?許せないよね?だから、ココで取り戻そう?絶対うまくいくし、彼なら許してくれる。大丈夫……。責任取れって言えばいいだけでしょう?こんなに、心配してくれるのだから。)

藤白 真夜 >   
 ――ちがう。……ちがう!
 この人は、正しいひとだ。“良い人”だ。
 私は、騙したりしない。
 ただ、自分で責任を以って正しく悪を行う……!

「――ごめんなさい。
 どうか、今からする過ちを、許して――いいえ、許さなくて、いいですから」

「……受け入れて、ください」

 あなたを見つめる瞳は、鮮やかに紅く輝き。
 ――でも、流れる涙とともに、昏く沈んだ。
 
 怪我人だろうと、気にしない。
 血の匂いをプンプンさせる男を――さかしくも周りに気取られないように――別れ際の抱擁めいて、抱きしめた。
 相手の承諾なんて、得るつもりも無い。抵抗されるなら、無理矢理やる。男の膂力は強いけど、相手の好意と隙に付け入る。

 抱きついて、菖蒲さんの首筋に、くちびるをつけた。

 小さく、くちびるから流れる血を、棘のようにして、かすかな傷をつける。きっと、文字通り蚊にさされた程度の痛みで。

「……ちゅ、……ぅ……」
 
 私は、芥子風菖蒲を抱きしめて、首筋に顔をうずめて。
 赤くて紅くて艶めく美しくて艶やかなそれを、クチにした。

芥子風 菖蒲 >  
「そう言うのを決めるのは多分、自分だけじゃない……かな。
 オレは戦うしか出来ないし、オレは真夜先輩や皆に、オレの無いものを貰ってばかり」

「体張る位しか能は無いけど、そこにはきっと価値が在る……と、思ってる」

それで救われる命が、皆の笑顔が、温もりが護れるなら、それでいい。
自分が正しいとか、正義とか、風紀とか、少年にとっては"どうでもよかった"。
自分の護りたいものさえ護れれば、それでいいんだ。
少年にとって単純なもので、大きな価値があると思ってる。

「だから、それを決めるのは真夜先輩だけじゃないよ」

彼女だけじゃない。
きっと、彼女の事を思ってくれる人だっていたはずだ。
だから、"外側"なんかじゃない。
どれだけ拒絶されても、どれだけ言われても、何度でも手を伸ばして見せる。
諦めたらそれこそ、自分の価値に意味なんてないと思っているから。

一瞬灯った血の光に、青空は僅かに見開いた。

「…………」

"綺麗だ"。
そう胸中にぼやいた。だけどなんだろう。
その光は、少しだけ嫌な感じがした。

「真夜せん、ぱ……!?」

だから、また何か言おうとしたんだ。
けど視界が一気に揺れた。抱き寄せられたみたいだ。
顔いっぱいに、視界いっぱいに彼女が広がる。
あの時、添い寝したよりも視界いっぱいだ。
ボロボロの体には、ちょっと痛い。抵抗はしないが、苦い表情を浮かべる。

「先輩……何?ん……っ」

ちくり。首筋に違和感を感じた。
何かされたようだ。どうやら、血が出ているらしい。
彼女がそれを吸っている。血を操れる異能だと思っていたけど、それだけではないらしい。
それがどういう行動なのかはわからない。ただ、少年は抵抗しない。
別れ際の抱擁を、まるで別れさせないように、繋ぎとめるように背中に手を回した。

「……大丈夫?」

尚も彼女の事を気遣っていた。
よしよし、とまるで子ども扱いするように背中を暖かな手が撫でる。

芥子風 菖蒲 >  
それがどういうものなのか、少年にはわからない。
ただ数滴でもその舌を滴る少年の血は、"清く、艶やかで、濃く。まるで贄の様に極上に美味である"と言う事だ。

藤白 真夜 >  
 吸い上げれた血は、驚くほど少なかった。
 それこそ。
 くちづけの中に籠もる吐息ほどの量。

 怪我人を慮る余裕はなくて。
 彼を抱いた背中に爪を立てた。

(――私の。
 ……今、だけは……)

 体で感じる温かさは、全く入ってこなかった。
 ただただ、脈打つ温かい首筋を。
 はしたなく音を立てるくちびるを。
 嚥下するように蠕動する喉を。
 注ぎいれられるナカミを。
 
 温かい罪深さに、耽っていた。

 彼の気遣いも、撫でられる悦びも、今は全部後回し。
 ずっと……ずーっと。久しぶりの。求めていたモノ。
 人の命。その、赤い血潮。
 
「ぷ、ぁ……、」

 熱い吐息が首元に溢れ、喘ぐように息を継いで、もう一度――。
 
 ――ダメ。
 だめだめだめ……!
 違う。
 あっては、ならない。
 私はただ、蚊トンボのように憐れにその慈悲に吸い付くだけの、虫ケラでなくては、ならない。
 ただ、ほんの少し、嗜むように啄むだけ。
 ただそれだけで、私のナカは満たされる。
 空っぽの容器に、赤い命が注がれる。

 体を離す。
 もう、十二分に。
 
 だから、私は謝らなくては。この過ちを。
 この悪辣の、責任を――、

「は、ァ……っ♡」

 はしたなく、声がもれた。堪えるように両手で頬を抱いて、なお緩むのが収まらない。
 ああ、やっぱり。

 ――素敵……!やっぱり、抜けるような青空を感じると思ったの。純真な花のような香り。けど刃先のように清廉で。なのに、喉越しはあっけないくらい素直に堕ちていくのっ!それに、異能のせい?とっても濃くて、まるで――、

「あ……っ」

 頬を抱いたまま、涙が流れた。いや、流れていたかもしれない。
 それは自らの願望を断つような悲しみの涙で、申し訳なく流すだけの謝りの涙で。……法悦の涙でもあった。

「ご、」

 涙を流す瞳は、元通り。
 興奮も、獲物を見る瞳も無く、ただただ闇を映す光の無い瞳。音もなく流れた涙は、笑みを浮かべていたはずの口元に触れた。

「ごめんなさい、……ごめんなさい……!」

 信じられないように、そう呟くと。
 文字通り。
 逃げるように、走り去った。
 ……怪我人が、追いつけないように。

ご案内:「常世総合病院」から藤白 真夜さんが去りました。
芥子風 菖蒲 >  
彼女が何を考えてるかなんて、見当は付かない。
冷たい体に包まれたまま、自らの熱を分け与えるように身を寄せた。
そこに何かを感じる事は無いけれど、求めるなら与えよう。
自分が与えられるものなら、幾らでも与えよう。
そう、何時だって貰う立場だった自分が、分け与える立場に成るのが嬉しかった。

───────それが例え、どれだけ歪な行為だったとしても、だ。

「……あ」

体が離れる。
その時見えた彼女の顔は、今まで自分が見た事ないような
もしかしたら、見る事もなかったような顔だった。
"恍惚"、そして涙。後悔?わからない。
ただ、あらゆる感情がごちゃ混ぜになってしまったような表情だった。
その涙の意味さえ、少年は察する事は出来ない。
けど、涙をぬぐう事は出来る。出来た、はずだった。

「あ、先輩……!」

去ろうとするその姿に、手を伸ばす。
届く事はなく、空を掴んで姿勢を崩した。
瞬間、足に内側から殴られたような鈍痛が走り、膝が床を叩いた。

「あぐ……!…っ…ぅ……!」

治りきっていない足首では、到底追いつける事もない。
苦悶の声を上げ、歯を食いしばり、うずくまる少年の周りに駆けつけるナース。
結局、彼女を追う事は出来ず、ナースに怒られて自室へ寝かされる羽目になった。

どうして泣いていたのだろう。
どうしてあんなに嬉しそうなんだろう。
どうして血を吸いたいんだろう。
溢れ出る疑問に答えるものは、もういない。

「……まぁ、いいか」

きっと、また会える。
自らの首筋を撫で、少年はベッドの上で青空を瞼で閉じた。

ご案内:「常世総合病院」から芥子風 菖蒲さんが去りました。