2024/08/27 のログ
■女郎花 >
「滄海変じて桑田となる。
大海が桑畑に変わるように、世の移り変わりの激しいことのたとえじゃ」
女郎花は目を閉じ、その人さし指をすっすっと横に振った。
穏やかで、優しげな表情である。
『いつものことだけどよ。お前と話してると、頭が痛くなってくるぜ。
もうちぃと、客に媚びた話し方はできんのか、お前は』
「難儀なことを言うものじゃ。
やれ御主人様、マスター、などと言って撓垂れ掛かり、
尻尾を振って、ねうねうと甘える吾人をご所望か?
ならば、別の店員を当たるが良いぞ。いくらでも紹介してやろう」
『そういう訳じゃねぇけどよ……』
「それに、頭痛が吹っ飛ぶような薬なら、置いてあるぞ?
吾人が持ってきてやろうか?」
悪戯っぽく笑う女郎花。
態度こそ店員のそれとは思えないが、
見目はどこから切り取っても、魅惑的な花である。
故に、少なくない者達が彼を目当てに通い詰めるのだ。
そして、それは衛もまた同じであった。
衛は彼我に向けて、大きくため息を吐いた。
■女郎花 >
『いや、今日は良い。
明日は本気の……命懸けの勝負なんでな。
薬は良い。酒をくれ、酒を』
衛の眼差しは、ここに来て鈍く黒い光を放つ。
丁度、彼に備わった凶器と同質の、暗く重い光であった。
「ふむ、承った。
して、今宵は何を?」
『……いつものやつで』
「御身のお気に入りは、フェニーチェじゃったナ。
控えめにしておくか?」
女郎花は注文を受けると、グラスを取り出し始める。
『いや、いつもので良い』
「あい分かった」
女郎花が取り出したのは、パブ独特のパイントグラス。
中でも、口部すぐ下に膨らみがある形状の、
ノニック・グラスと呼ばれるものである。
no nickが由来のそれは、
指を引っ掛けやすく床に落とし辛い。
「暫し待たれよ」
不死鳥のロゴが刻まれたビールタップ。
かつてこの地で情熱の爪痕を残し、
当時の風紀委員達との激闘の末に閉幕を迎えた違反部活。
不死鳥の名を冠する彼らに、インスピレーションを得て作られたものだ。
その不死鳥へ、手早く女郎花の白い五指が添えられれば。
淡い琥珀色がタップから注がれ、甘く香ばしい香りが漂い始める。
マンゴーフレーバーの、麦芽風味豊かなペールエールだ。
たっぷりと注がれたノニック・グラスに注がれる琥珀色の幻影に、
衛は思わず目を奪われた。
そうして生身の腕で、
己のサイバーアームに刻んだ
『紅色の鷹』の文字の上にそっと手を置いたのだった。
■女郎花 >
琥珀の海。
細かい泡がゆっくりと表面に浮かび上がっては、消えていく。
衛はそのビールを手に取ることなく、ただじっと眺め続けていた。
女郎花はといえば、ただ黙って男の顔を見つめていた。
そうして、カウンターへ指を置くと、つつ、と縁を滑らせる。
そのままグラスを、下から上へ、その細指でゆっくりと撫でていく。
その指は、下部から、グラスの膨らみ部分へ。
テナーサックスとピアノの旋律が紫煙と共に、
扇情的なスローテンポのダンスを嗜む中――。
――きん、と。
涼しげで小さな音が、二人の間に小気味よく鳴り響いた。
女郎花がグラスを撫で上げた手を返し、人さし指でグラスを突いたのだ。
ハッとして、目を見開く衛。
「杯に金魚が泳いでおるぞ、衛よ」
酒を促された衛は、僅かに駆動音を立てて、
義肢の関節を動かす。
そうして黒腕をグラスへ近づけると、
膨らみ部分を優しく掴み上げて、口元へ運ぶのだった。
その指が。その腕が。
僅かに震えていることを、女郎花は見逃さなかった。
「その腕。吾人の調整が甘かったかノォ」
ふ、と。カウンターから乗り出すようにして、
その顔を腕へと近づける女郎花。
琥珀色は悪戯っぽく細められているが、
下がった眉からは心配の色がその裏にしっかりと見て取れる。
『……いや、お前の腕に狂いはねぇだろうさ』
それだけ返答をして、衛はグラスを一気に傾けた。
沈黙が流れる。女郎花は何も言わず、男の言葉を待っていた。
『地獄の門』の聞き手の一人として、
こういった時に無駄に口は挟まないのである。
■女郎花 >
『……怖いんだ。
明日やり合うのは、あの、屠龍会だ。
……お前なら知ってるだろ、復讐だ、復讐だよ。
俺達の頭をバラバラにして落第街中にばら撒きやがった、
あの、あいつらだ……。
これまでも命のやり取りはしてきたがよ、
俺は今度こそ死ぬかもしれねぇ。
奴らと俺らじゃ、格が違いすぎる。
でも、でも……兄貴を殺された恨み、重み!
これ以上指を咥えてなんかいられねぇ……!』
鈍い音と共に、カウンターが揺れた。
店主は静かにグラスを磨くのみで、何の反応もしない。
衛が視線を移した、女郎花はといえば。
先の悪戯っぽい表情を消した彼は真剣な表情で、
その言葉を聞いているようだった。
語調を荒げた衛の声に、一瞬テーブル席の喧騒が静まる。
大きくため息をついた後に、衛は語を継いでいく。
『やり残したことが、だとか。
ジジイまで生きていたいだとか。
色んな手を振り払って、ここで生きることを選んだんだ。
そんなことを言うつもりは毛頭ねぇ。
ただ……俺達みてぇな落第街の人間にとっちゃ、
月次な……考えだろうけどよ。
もし、死んだとして、だ。
もし俺の、俺達の全てが終わった時、
誰かに忘れ去られるのが、何もなかったことになっちまうのが……
ただただ、俺は怖いんだ』
独白の如く放たれたそれは、
『地獄の門』に集っていたあらゆる違反部活の面々の耳にも届いた。
顔を見合わせる者。
俯く者。
窓の外を見る者。
拳を握る者。
反応は様々であったが。
その場の誰もが、彼の言葉を静かに聞いていた。
■女郎花 > 「若さ、よナァ。いずれ誰もが忘却の泡沫に溶けゆく。
命こそ最も尊き財産。義憤も復讐も、価値としては遠く及ばぬ。
恐れるならば、いつでも身を引けば良い。
まだ陽光の下を歩く道とて選べよう。
……などと、御身へ斯様な言をくれてやっても、
聞きはせんのじゃろうがナ。
虎は死して皮を残し、人は死して名を残すという。
せめて散るならば一矢報い、
この街の連中が忘れられない男になってみせよ」
沈黙の中、女郎花はそのように言葉を渡した。
そうして他の店員へ目配せをする。
注文を取る店員、別の話題を持ち出す店員。
ややあって、『地獄の門』は普段通りの喧騒を取り戻した。
『忘れられない男、か。
……なぁ、女郎花。一晩俺に買われちゃくれねぇか』
衛は、女郎花の顔を見つめた。
何度も見て、言葉を交わした相手の顔を焼き付けるように。
それに対して、女郎花は何も言わなかった。
ただ、寄越された言葉への返答を返すのみ。
「……その立派な腕3本分の金にて、
御身に媚びてやらんでもない」
指三本を立てて、悪戯っぽく笑う猫。
『……相変わらず手厳しいぜ。
この際だ、癪だが……言っといてやる。
女としてのお前には、心底惚れてたんだ』
「……なに。杯を交わすくらいならば、いくらでも付き合ってやるぞ」
女郎花は、穏やかな表情をしていた。その顔に寂しさを隠していることは、
長らく顔を合わせていた衛ですら、見抜けなかったことであろう。
「そうか、なら……」
『クソッタレの俺達に――』
「どうしようもない落第街に――」
グラスがぶつかる音が、静かに響いた。
―――
――
―
■女郎花 >
―
――
―――
「『――乾杯』」
杯に満たされた、紅色の酒。
カウンターでそれを受け取った男は、
ノニック・グラスを一気に空にしてみせた。
『良いお酒だね、女郎花。
ホップの苦みが強い……でも、苦いだけじゃない。
濃厚なベリーの甘さが効いてるね。最高だよ』
女郎花が向かい合って話している男。
優男といった風貌のその男は、女郎花を前に笑顔を見せている。
「そうであろ。
御身は近頃疲れていそうじゃったからナァ。
がつんと効くやつをオススメしてやったまでよ」
ふふん、と得意げに。目を閉じて、人さし指を振る猫又。
「ねぇ、女郎花。
このお酒には、どんな由来があるんだい?」
女郎花は紅色をした鷹が描かれたビールタップから手を離すと、
空いたグラスの縁に指を添えた。
その琥珀色の瞳は、窓の向こうの薄雲にかかる月を見ていた。
あの日、男と杯を交わした日と同じ月だ。
■女郎花 >
「ならば、この酒について少々講釈をくれてやるとしよう。
そうじゃノォ、あれは五年前。ある雨の日のことじゃった――」
猫又は琥珀色の宝石をそっと、細めた。
――月かげに 涼みあかせる 夏の夜は ただひとゝきの 秋ぞありける
ほのかに照る晩夏の薄月の光の下、
グラスに僅かに残された紅色の酒は、静かな光を湛えていた。
学園の夏は、確かに終わりを迎えつつあった。
夏はただ、過ぎ去っていく。
夏の日差しの下に。晩夏の月に。
誰かを置き去りにしたとて。
季節は、夏から秋へ移りゆくのみ――。
ご案内:「『紅の酒と晩夏の月』」から女郎花さんが去りました。