2024/08/27 のログ
女郎花 >  
滄海(そうかい)変じて桑田(そうでん)となる。
 大海が桑畑に変わるように、世の移り変わりの激しいことのたとえじゃ」

女郎花は目を閉じ、その人さし指をすっすっと横に振った。
穏やかで、優しげな表情である。

『いつものことだけどよ。お前と話してると、頭が痛くなってくるぜ。
 もうちぃと、客に媚びた話し方はできんのか、お前は』

「難儀なことを言うものじゃ。
 やれ御主人様、マスター、などと言って撓垂れ掛(しなだれか)かり、
 尻尾を振って、ねうねう(寝よう寝よう)と甘える吾人をご所望か?
 ならば、別の店員を当たるが良いぞ。いくらでも紹介してやろう」

『そういう訳じゃねぇけどよ……』

「それに、頭痛が吹っ飛ぶような(モノ)なら、置いてあるぞ?
 吾人(ごじん)が持ってきてやろうか?」

悪戯っぽく笑う女郎花。
態度こそ店員のそれとは思えないが、
見目はどこから切り取っても、魅惑的な花である。
故に、少なくない者達が彼を目当てに通い詰めるのだ。

そして、それは衛もまた同じであった。
衛は彼我に向けて、大きくため息を吐いた。

女郎花 >  
『いや、今日は良い。
明日は本気の……命懸けの勝負なんでな。
薬は良い。酒をくれ、酒を』

衛の眼差しは、ここに来て鈍く黒い光を放つ。
丁度、彼に備わった凶器(クローム)と同質の、暗く重い光であった。

「ふむ、承った。
 して、今宵は何を?」

『……いつものやつで』

「御身のお気に入りは、フェニーチェじゃったナ。
 控えめ(ハーフ)にしておくか?」

女郎花は注文を受けると、グラスを取り出し始める。

『いや、いつもの(パイント)で良い』

「あい分かった」

女郎花が取り出したのは、パブ独特のパイントグラス。
中でも、口部すぐ下に膨らみがある形状の、
ノニック・グラスと呼ばれるものである。

no nick(欠け無し)が由来のそれは、
指を引っ掛けやすく床に落とし辛い。

「暫し待たれよ」

不死鳥のロゴが刻まれたビールタップ。
かつてこの地で情熱の爪痕を残し、
当時の風紀委員達との激闘の末に閉幕を迎えた違反部活。
不死鳥の名を冠する彼らに、インスピレーションを得て作られたものだ。

その不死鳥へ、手早く女郎花の白い五指が添えられれば。

淡い琥珀色がタップから注がれ、甘く香ばしい香りが漂い始める。
マンゴーフレーバーの、麦芽風味豊かなペールエールだ。

たっぷりと注がれたノニック・グラスに注がれる琥珀色の幻影(それ)に、
衛は思わず目を奪われた。

そうして生身の腕で、
己のサイバーアームに刻んだ
『紅色の鷹』の文字の上にそっと手を置いたのだった。

女郎花 >  
琥珀の海。
細かい泡がゆっくりと表面に浮かび上がっては、消えていく。
衛はそのビールを手に取ることなく、ただじっと眺め続けていた。

女郎花はといえば、ただ黙って男の顔を見つめていた。
そうして、カウンターへ指を置くと、つつ、と縁を滑らせる。

そのままグラスを、下から上へ、その細指でゆっくりと撫でていく。
その指は、下部から、グラスの膨らみ部分へ。
テナーサックスとピアノの旋律が紫煙と共に、
扇情的なスローテンポのダンスを嗜む中――。

――きん、と。
涼しげで小さな音が、二人の間に小気味よく鳴り響いた。
女郎花がグラスを撫で上げた手を返し、人さし指でグラスを突いたのだ。
ハッとして、目を見開く衛。

「杯に金魚が泳いでおるぞ、衛よ」

酒を促された衛は、僅かに駆動音を立てて、
義肢(クローム)の関節を動かす。
そうして黒腕をグラスへ近づけると、
膨らみ部分を優しく掴み上げて、口元へ運ぶのだった。

その指が。その腕が。
僅かに震えていることを、女郎花は見逃さなかった。

「その腕。吾人の調整が甘かったかノォ」

ふ、と。カウンターから乗り出すようにして、
その顔を腕へと近づける女郎花。
琥珀色は悪戯っぽく細められているが、
下がった眉からは心配の色がその裏にしっかりと見て取れる。

『……いや、お前の腕に狂いはねぇだろうさ』

それだけ返答をして、衛はグラスを一気に傾けた。
沈黙が流れる。女郎花は何も言わず、男の言葉を待っていた。
『地獄の門』の聞き手の一人として、
こういった時に無駄に口は挟まないのである。

女郎花 >  
『……怖いんだ。
 明日やり合うのは、あの、屠龍会だ。
 ……お前なら知ってるだろ、復讐だ、復讐だよ。
 
 俺達の頭をバラバラにして落第街中にばら撒きやがった、
 あの、あいつらだ……。
 これまでも命のやり取りはしてきたがよ、
 俺は今度こそ死ぬかもしれねぇ。
 奴らと俺らじゃ、格が違いすぎる。

 でも、でも……兄貴を殺された恨み、重み!
 これ以上指を咥えてなんかいられねぇ……!』

鈍い音と共に、カウンターが揺れた。
店主は静かにグラスを磨くのみで、何の反応もしない。

衛が視線を移した、女郎花はといえば。
先の悪戯っぽい表情を消した彼は真剣な表情で、
その言葉を聞いているようだった。
語調を荒げた衛の声に、一瞬テーブル席の喧騒が静まる。
大きくため息をついた後に、衛は語を継いでいく。

 『やり残したことが、だとか。
 ジジイまで生きていたいだとか。
 色んな手を振り払って、ここで生きることを選んだんだ。
 そんなことを言うつもりは毛頭ねぇ。
 
 ただ……俺達みてぇな落第街の人間にとっちゃ、
 月次(つきなみ)な……考えだろうけどよ。
 
 もし、死んだとして、だ。
 もし俺の、俺達の全てが終わった時、
 誰かに忘れ去られるのが、何もなかったことになっちまうのが……
 ただただ、俺は怖いんだ

独白の如く放たれたそれは、
『地獄の門』に集っていたあらゆる違反部活の面々の耳にも届いた。

顔を見合わせる者。
俯く者。
窓の外を見る者。
拳を握る者。
反応は様々であったが。

その場の誰もが、彼の言葉を静かに聞いていた。

女郎花 > 「若さ、よナァ。いずれ誰もが忘却の泡沫に溶けゆく。
 命こそ最も尊き財産。義憤も復讐も、価値としては遠く及ばぬ。
 恐れるならば、いつでも身を引けば良い。
 まだ陽光の下を歩く道とて選べよう。
 
 ……などと、御身へ斯様な言をくれてやっても、
 聞きはせんのじゃろうがナ。

 虎は死して皮を残し、人は死して名を残すという。
 
 せめて散るならば一矢報い、
 この街の連中が忘れられない男になってみせよ」

沈黙の中、女郎花はそのように言葉を渡した。
そうして他の店員へ目配せをする。
注文を取る店員、別の話題を持ち出す店員。
ややあって、『地獄の門』は普段通りの喧騒を取り戻した。

『忘れられない男、か。
……なぁ、女郎花。一晩俺に買われちゃくれねぇか』

衛は、女郎花の顔を見つめた。
何度も見て、言葉を交わした相手の顔を焼き付けるように。
それに対して、女郎花は何も言わなかった。
ただ、寄越された言葉への返答を返すのみ。

「……その立派な(モノ)3本分の金にて、
 御身に媚びてやらんでもない」

指三本を立てて、悪戯っぽく笑う猫。

『……相変わらず手厳しいぜ。
 この際だ、癪だが……言っといてやる。
 女としてのお前には、心底惚れてたんだ』

「……なに。杯を交わすくらいならば、いくらでも付き合ってやるぞ」

女郎花は、穏やかな表情をしていた。その顔に寂しさを隠していることは、
長らく顔を合わせていた衛ですら、見抜けなかったことであろう。

「そうか、なら……」

『クソッタレの俺達に――』

「どうしようもない落第街に――」


グラスがぶつかる音が、静かに響いた。

―――
――

女郎花 >  

――
―――
「『――乾杯』」

杯に満たされた、紅色の酒。
カウンターでそれを受け取った男は、
ノニック・グラスを一気に空にしてみせた。

『良いお酒だね、女郎花。
 ホップの苦みが強い……でも、苦いだけじゃない。
 濃厚なベリーの甘さが効いてるね。最高だよ』

女郎花が向かい合って話している男。
優男といった風貌のその男は、女郎花を前に笑顔を見せている。

「そうであろ。
 御身は近頃疲れていそうじゃったからナァ。
 がつんと効くやつをオススメしてやったまでよ」

ふふん、と得意げに。目を閉じて、人さし指を振る猫又。

「ねぇ、女郎花。
 このお酒には、どんな由来(ものがたり)があるんだい?」

女郎花は紅色をした鷹が描かれたビールタップから手を離すと、
空いたグラスの縁に指を添えた。
その琥珀色の瞳は、窓の向こうの薄雲にかかる月を見ていた。

あの日、男と杯を交わした日と同じ月だ。

女郎花 >  
「ならば、この酒について少々講釈をくれてやるとしよう。
 
 そうじゃノォ、あれは五年前。ある雨の日のことじゃった――」

猫又は琥珀色の宝石をそっと、細めた。

――月かげに 涼みあかせる 夏の夜は ただひとゝきの 秋ぞありける

ほのかに照る晩夏の薄月の光の下、
グラスに僅かに残された紅色の酒は、静かな光を湛えていた。


学園の夏は、確かに終わりを迎えつつあった。

夏はただ、過ぎ去っていく。

夏の日差しの下に。晩夏の月に。
誰かを置き去りにしたとて。

季節は、夏から秋へ移りゆくのみ――。

ご案内:「『紅の酒と晩夏の月』」から女郎花さんが去りました。