2024/08/26 のログ
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ご案内:「『紅の酒と晩夏の月』」に女郎花さんが現れました。
女郎花 >  
――一年前の、晩夏。
薄暗い店内に流れるノワール・ジャズ。
点描的に紡がれるアンビエントな旋律が奏でられ、
店内は退廃的な情調を伴っている。

耳にすれば、照明の中で立ち上る紫煙の香りと共に、
胸の内で燻る火群(ほむら)の如き高揚感を
掻き立てられる者も居よう。

テーブルに集うのは、二級学生や不法入島者達。
彼らによる喧々囂々の間に、
先の旋律がするりと入り込んでいる。
それが、暗澹たる空気の中に、
耳にうるさくない程度に活気の入り混じった、
独特な色彩を生み出しているのだ。

店内の最奥部には、使い古されたオーク材のバーカウンターがある。
よく磨かれているが、お世辞にも美しいとは言えない。

所々にある、隠せない傷。
無論、この『地獄の門』で繰り返された暴力の歴史を、
深閑の内に物語っているものである。
ナイフに抉られた跡や、打撃による罅割れなど、
傷の数は枚挙にいとまがない。

それでもこのバーカウンターは、厳かに。
そこに、在り続けている。

女郎花 >  
「月かげに 涼みあかせる 夏の夜は――」

その声は、何処までも柔らかく、そして甘い囁きのように放たれた。

「――ただひとゝきの 秋ぞありける」

バーカウンターの片隅、窓に最も近いその縁で、
カウンターを拭く人影が一つ。

近場にある窓の外から顔を出す薄月はやけに冷たく、
そして薄雲越しにも眩しく見えている。

その月光の傍らで、その人影は静かに尻尾を踊らせていた。
そう、尻尾だ。
人影からは二本の猫の尻尾が生えており、
しなやかにゆらゆらと、緩慢なリズムで揺らされている。
それは、ノワール・ジャズの気まぐれな旋律を
指揮しているかのようであった。

その隣で、
痩身の中年男――この店の店主が、無心でグラスを磨いている。

いつも通りの風景だ。
時計の針も、静かに欠伸をしているようであった。

女郎花 >  
女郎花(おみなえし)、また詩か?』

入口から入ってきたのは、巨岩と見紛う大柄な男であった。
擦り切れた黒のレザージャケットを着込んだその男は、
髪を短く刈り上げている。

違反部活『紅色の鷹』の幹部の一人、轟雷の(ウェイ)である。

盛り上がった左腕や首元には、
数多の派手な入れ墨が所狭しと描かれていた。
対して、右腕は漆黒のサイバーアームである。
黒光りする炭素鋼(カーボンスチール)製の凶器を放り出すように
カウンターに乗せると、男はカウンターの向こうに居る人物の顔を覗き込んだ。

月影に踊り、バーカウンターを磨いていた()の人物である。

女郎花(おみなえし)

そう呼ばれた人影は、ふと顔を上げる。
白く、瑞々しい肌の妖――猫又であった。

艶のある茶の髪は、彼が首を傾げると共にさらりと流れた。
そうして茶の髪からぴょこりと生えた猫の耳が僅かに左右へと動かされる。
小刻みに動くそれは、遺憾に思っていることがあることを示す独特の動きだ。

「ふむ。詩といえば詩じゃナァ。
 先の詩は、藤原良経の詠んだ和歌じゃよ。
 涼しげな夏の終わりの夜の月に、秋を感じる、そんな歌じゃ」

女郎花はカウンターを拭くのをやめて、新たな客の方へと向き直った。
ぱちりと開いた琥珀色の瞳は、魔性の宝石の如く煌めいた。

『さっぱり分からんし興味もねぇが、
 声だけは良かったぜ』

岩と見紛う巨腕でその黒い単発を雑に掻き毟りながら、
衛は顔を顰めた。

「雅趣を解する心は、人生に潤いと彩りを与えるというニ。
 乾ききった御身(おみ)の感性を潤すため、
 今宵も酒を入れてやらねばならんか」

女郎花の柳眉はくい、と下がり。
琥珀はじぃと細められたが、口端は緩やかに上向きの曲線を描いている。

女郎花 >  
「しかし、久々じゃノォ、衛よ。
 どうじゃ、御身の為に改めて弄ってやったその(クローム)は。
 悪くないじゃろう?」

そう口にして、女郎花と呼ばれた猫又は、
カウンターに置かれた鈍く輝く黒を見やった。

轟雷の衛の名は、
この腕に搭載された雷撃を放つ妖術の機構(ギミック)を由来とする。
それは、女郎花が自身の妖力を込めて手掛けたものであった。

『あぁ、最高だ。
最初はサイバネの技術と妖術を組み合わせて
俺の腕にぶち込むなんざ、ちょいと抵抗があったんだがな。
今はもう、こいつ無しの戦いは考えられねぇよ』

衛は肘を曲げ、
己の義肢(クローム)を見せびらかすように五指を握ってみせた。
少し遠くのテーブルに居る何名かが、
ハッとその様子に気づき、顔を突き合わせている。

彼の(誇り)とテーブル席の客の様子を見やれば、
改めて女郎花は顔を綻ばせた。

「ふむ。
 近頃は、落第街(こちら)でそこそこ名をあげているようじゃノォ。
 もう四年前になるか。あの雨の夜のことは、はっきりと覚えておるぞ。
 右腕を失って転がり込んできた何者でもなかった男が、
 二つ名で呼ばれるようになる程度の時間は、経っておるのじゃナァ」

『いつもお前が言ってる、ソーカイなんとかってやつだな』

女郎花の笑みを見た衛もまたフ、と静かに笑い、
そのように返した。
背後であれこれ己について口にされていることは、
全く気にしていないようであった。

彼の視線は、女郎花のみに注がれていた。

女郎花 >  
滄海(そうかい)変じて桑田(そうでん)となる。
 大海が桑畑に変わるように、世の移り変わりの激しいことのたとえじゃ」

女郎花は目を閉じ、その人さし指をすっすっと横に振った。
穏やかで、優しげな表情である。

『いつものことだけどよ。お前と話してると、頭が痛くなってくるぜ。
 もうちぃと、客に媚びた話し方はできんのか、お前は』

「難儀なことを言うものじゃ。
 やれ御主人様、マスター、などと言って撓垂れ掛(しなだれか)かり、
 尻尾を振って、ねうねう(寝よう寝よう)と甘える吾人をご所望か?
 ならば、別の店員を当たるが良いぞ。いくらでも紹介してやろう」

『そういう訳じゃねぇけどよ……』

「それに、頭痛が吹っ飛ぶような(モノ)なら、置いてあるぞ?
 吾人(ごじん)が持ってきてやろうか?」

悪戯っぽく笑う女郎花。
態度こそ店員のそれとは思えないが、
見目はどこから切り取っても、魅惑的な花である。
故に、少なくない者達が彼を目当てに通い詰めるのだ。

そして、それは衛もまた同じであった。
衛は彼我に向けて、大きくため息を吐いた。

女郎花 >  
『いや、今日は良い。
明日は本気の……命懸けの勝負なんでな。
薬は良い。酒をくれ、酒を』

衛の眼差しは、ここに来て鈍く黒い光を放つ。
丁度、彼に備わった凶器(クローム)と同質の、暗く重い光であった。

「ふむ、承った。
 して、今宵は何を?」

『……いつものやつで』

「御身のお気に入りは、フェニーチェじゃったナ。
 控えめ(ハーフ)にしておくか?」

女郎花は注文を受けると、グラスを取り出し始める。

『いや、いつもの(パイント)で良い』

「あい分かった」

女郎花が取り出したのは、パブ独特のパイントグラス。
中でも、口部すぐ下に膨らみがある形状の、
ノニック・グラスと呼ばれるものである。

no nick(欠け無し)が由来のそれは、
指を引っ掛けやすく床に落とし辛い。

「暫し待たれよ」

不死鳥のロゴが刻まれたビールタップ。
かつてこの地で情熱の爪痕を残し、
当時の風紀委員達との激闘の末に閉幕を迎えた違反部活。
不死鳥の名を冠する彼らに、インスピレーションを得て作られたものだ。

その不死鳥へ、手早く女郎花の白い五指が添えられれば。

淡い琥珀色がタップから注がれ、甘く香ばしい香りが漂い始める。
マンゴーフレーバーの、麦芽風味豊かなペールエールだ。

たっぷりと注がれたノニック・グラスに注がれる琥珀色の幻影(それ)に、
衛は思わず目を奪われた。

そうして生身の腕で、
己のサイバーアームに刻んだ
『紅色の鷹』の文字の上にそっと手を置いたのだった。

女郎花 >  
琥珀の海。
細かい泡がゆっくりと表面に浮かび上がっては、消えていく。
衛はそのビールを手に取ることなく、ただじっと眺め続けていた。

女郎花はといえば、ただ黙って男の顔を見つめていた。
そうして、カウンターへ指を置くと、つつ、と縁を滑らせる。

そのままグラスを、下から上へ、その細指でゆっくりと撫でていく。
その指は、下部から、グラスの膨らみ部分へ。
テナーサックスとピアノの旋律が紫煙と共に、
扇情的なスローテンポのダンスを嗜む中――。

――きん、と。
涼しげで小さな音が、二人の間に小気味よく鳴り響いた。
女郎花がグラスを撫で上げた手を返し、人さし指でグラスを突いたのだ。
ハッとして、目を見開く衛。

「杯に金魚が泳いでおるぞ、衛よ」

酒を促された衛は、僅かに駆動音を立てて、
義肢(クローム)の関節を動かす。
そうして黒腕をグラスへ近づけると、
膨らみ部分を優しく掴み上げて、口元へ運ぶのだった。

その指が。その腕が。
僅かに震えていることを、女郎花は見逃さなかった。

「その腕。吾人の調整が甘かったかノォ」

ふ、と。カウンターから乗り出すようにして、
その顔を腕へと近づける女郎花。
琥珀色は悪戯っぽく細められているが、
下がった眉からは心配の色がその裏にしっかりと見て取れる。

『……いや、お前の腕に狂いはねぇだろうさ』

それだけ返答をして、衛はグラスを一気に傾けた。
沈黙が流れる。女郎花は何も言わず、男の言葉を待っていた。
『地獄の門』の聞き手の一人として、
こういった時に無駄に口は挟まないのである。

女郎花 >  
『……怖いんだ。
 明日やり合うのは、あの、屠龍会だ。
 ……お前なら知ってるだろ、復讐だ、復讐だよ。
 
 俺達の頭をバラバラにして落第街中にばら撒きやがった、
 あの、あいつらだ……。
 これまでも命のやり取りはしてきたがよ、
 俺は今度こそ死ぬかもしれねぇ。
 奴らと俺らじゃ、格が違いすぎる。

 でも、でも……兄貴を殺された恨み、重み!
 これ以上指を咥えてなんかいられねぇ……!』

鈍い音と共に、カウンターが揺れた。
店主は静かにグラスを磨くのみで、何の反応もしない。

衛が視線を移した、女郎花はといえば。
先の悪戯っぽい表情を消した彼は真剣な表情で、
その言葉を聞いているようだった。
語調を荒げた衛の声に、一瞬テーブル席の喧騒が静まる。
大きくため息をついた後に、衛は語を継いでいく。

 『やり残したことが、だとか。
 ジジイまで生きていたいだとか。
 色んな手を振り払って、ここで生きることを選んだんだ。
 そんなことを言うつもりは毛頭ねぇ。
 
 ただ……俺達みてぇな落第街の人間にとっちゃ、
 月次(つきなみ)な……考えだろうけどよ。
 
 もし、死んだとして、だ。
 もし俺の、俺達の全てが終わった時、
 誰かに忘れ去られるのが、何もなかったことになっちまうのが……
 ただただ、俺は怖いんだ

独白の如く放たれたそれは、
『地獄の門』に集っていたあらゆる違反部活の面々の耳にも届いた。

顔を見合わせる者。
俯く者。
窓の外を見る者。
拳を握る者。
反応は様々であったが。

その場の誰もが、彼の言葉を静かに聞いていた。

女郎花 > 「若さ、よナァ。いずれ誰もが忘却の泡沫に溶けゆく。
 命こそ最も尊き財産。義憤も復讐も、価値としては遠く及ばぬ。
 恐れるならば、いつでも身を引けば良い。
 まだ陽光の下を歩く道とて選べよう。
 
 ……などと、御身へ斯様な言をくれてやっても、
 聞きはせんのじゃろうがナ。

 虎は死して皮を残し、人は死して名を残すという。
 
 せめて散るならば一矢報い、
 この街の連中が忘れられない男になってみせよ」

沈黙の中、女郎花はそのように言葉を渡した。
そうして他の店員へ目配せをする。
注文を取る店員、別の話題を持ち出す店員。
ややあって、『地獄の門』は普段通りの喧騒を取り戻した。

『忘れられない男、か。
……なぁ、女郎花。一晩俺に買われちゃくれねぇか』

衛は、女郎花の顔を見つめた。
何度も見て、言葉を交わした相手の顔を焼き付けるように。
それに対して、女郎花は何も言わなかった。
ただ、寄越された言葉への返答を返すのみ。

「……その立派な(モノ)3本分の金にて、
 御身に媚びてやらんでもない」

指三本を立てて、悪戯っぽく笑う猫。

『……相変わらず手厳しいぜ。
 この際だ、癪だが……言っといてやる。
 女としてのお前には、心底惚れてたんだ』

「……なに。杯を交わすくらいならば、いくらでも付き合ってやるぞ」

女郎花は、穏やかな表情をしていた。その顔に寂しさを隠していることは、
長らく顔を合わせていた衛ですら、見抜けなかったことであろう。

「そうか、なら……」

『クソッタレの俺達に――』

「どうしようもない落第街に――」


グラスがぶつかる音が、静かに響いた。

―――
――

女郎花 >  

――
―――
「『――乾杯』」

杯に満たされた、紅色の酒。
カウンターでそれを受け取った男は、
ノニック・グラスを一気に空にしてみせた。

『良いお酒だね、女郎花。
 ホップの苦みが強い……でも、苦いだけじゃない。
 濃厚なベリーの甘さが効いてるね。最高だよ』

女郎花が向かい合って話している男。
優男といった風貌のその男は、女郎花を前に笑顔を見せている。

「そうであろ。
 御身は近頃疲れていそうじゃったからナァ。
 がつんと効くやつをオススメしてやったまでよ」

ふふん、と得意げに。目を閉じて、人さし指を振る猫又。

「ねぇ、女郎花。
 このお酒には、どんな由来(ものがたり)があるんだい?」

女郎花は紅色をした鷹が描かれたビールタップから手を離すと、
空いたグラスの縁に指を添えた。
その琥珀色の瞳は、窓の向こうの薄雲にかかる月を見ていた。

あの日、男と杯を交わした日と同じ月だ。

女郎花 >  
「ならば、この酒について少々講釈をくれてやるとしよう。
 
 そうじゃノォ、あれは五年前。ある雨の日のことじゃった――」

猫又は琥珀色の宝石をそっと、細めた。

――月かげに 涼みあかせる 夏の夜は ただひとゝきの 秋ぞありける

ほのかに照る晩夏の薄月の光の下、
グラスに僅かに残された紅色の酒は、静かな光を湛えていた。


学園の夏は、確かに終わりを迎えつつあった。

夏はただ、過ぎ去っていく。

夏の日差しの下に。晩夏の月に。
誰かを置き去りにしたとて。

季節は、夏から秋へ移りゆくのみ――。

ご案内:「『紅の酒と晩夏の月』」から女郎花さんが去りました。